2019/06/15

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その2)

前回の続き。

明治憲法の「君主主権主義」と、新憲法下の「国民主権主義」との区別を曖昧にしかねない答弁を繰り返した当時の日本政府。

宮澤俊義議員は、
(明治憲法を)国民主権主義と言ふならば、どのやうな国家も苟くもそれが多少でも断続的生命を有する限り、総て国民主権主義であると言はなくてはならなくなりますし、それでは君主主権主義と国民主権主義との原理的な区別は全く意味を失つてしまふ
、政府の態度を厳しく批判していました

なお、前回見た部分は「ポツダム宣言」受諾と主権の所在の関係が主論点でした。
対してここから先の何問かは、1946年当時審議中の憲法改正案の規定に焦点が移っていきます。


3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

宮澤氏はここで、憲法改正案の条文を見れば国民主権主義が採用されていることは明白であると思うがどうかと、基本点の確認を行っています。

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〇宮澤俊義君 ……次に第三点、新憲法草案は右に述べたやうな国民主権主義を採用して居ると思ふがどうかと云ふ点であります、是は憲法の前文、其の他から言つて極めて明瞭であると思ふのであります、前文及び第一条の字句に付て衆議院で多少の修正が行はれました、私は此の修正が絶対に必要なものであつたとは必ずしも考へないのでありますが、唯一部には政府原案のやうな表現は必ずしも単純な国民主権主義を意味せず、多かれ、少なかれ、それとは違つたものを意味すると云ふ見解が行はれ、現に此の憲法改正案の定める国民主権主義は君民共治主義であるとか、更にそれは必ずしも天皇主権主義と根本的に違ふものでないと云ふやうな見解迄認められた位であります以上、さう云ふ誤解乃至は曲解の生ずる余地を防ぐ為には、此の修正は適当であつたと言へようと思ひます、併し何れにせよ、憲法改正案が国民主権主義を採用して居ることは、此の修正の有無に拘らず明白であり、又それは「ポツダム」宣言受諾に依つて最終的統治形態が、自由に表明せられた人民の意思に依つて定まるとする原理を承認した日本の憲法改正案としては、当然の態度であると思ふのでありますが、如何がでありませうか、
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なお、宮澤氏が言及している政府原案と衆議院修正についても簡単に。

天皇(明治憲法ではこちらが主権者だった)の地位と、国民(新しく主権者になったのがこちら)の関係性を規定した、極めて重要な条文が第一条です。

ところが政府が帝国議会に提出した改正原案では、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く
という表現ぶりになっていて、これでは新憲法下での主権の所在が不明確だと批判が噴出。
そこで衆議院の審議で修正され、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く
という現行の条文に落ち着いたという経過があったのでした。

「新憲法は国民主権主義だ」というシンプルなこの問いには、さすがの金森大臣も難解な論理を繰り出す余地はなく、ほぼ素直に事実関係を認める答弁をしています。

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〇国務大臣(金森徳次郎君) ……第三に憲法改正案は国民主権主義を採用して居ると信するが如何か、是は御説の通りであります、国家の意思の源泉は国民の全体に在ると云ふ原理を採る、其の原理に基いて政府原案も、又衆議院の修正に依りまする文章も記述せられて居る訳であります、
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4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

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