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2020/12/25

「索引」事件簿File.2【空襲で焼失、再製されず】 #国会会議録の使われ方 その8

「索引」事件簿File.2【空襲で焼失、再製されず】

 帝国議会の「議事速記録索引」は、帝国議会の存続期間中ほぼ全期間を通じて製作され続けていたようです。

 帝国議会会議録検索システムに収録されているのは、

 貴族院 第1議会~第91議会

 衆議院 第2議会~第92議会

 です。

 

「索引」が欠落している会期も

 ただ、第1議会(明治23年=1890年11月29日召集)の衆議院版や、第92議会(最後の帝国議会)の貴族院版が見当たらないことをはじめ、いくつかの欠落も見受けられます。

 「索引」が欠落した原因の特定は難しいものの、何となく理由を推し量ることが可能なケースは多く、

 <第7議会(明治27年=1894年) 貴族院の索引なし>
 日清戦争の最中、広島県にて議会召集。
 会期が4日間しかなく(
10月18日~21日)、両院とも短時間の本会議が3回開催された程度で終わっている。

 <第11議会(明治30年=1897年) 衆議院の索引なし>
 会期2日目(12月25日)にして松方内閣が衆議院を解散し、会期終了。議事がほとんど行われず。
 貴族院の索引も、もっぱら前議会以降の議員の異動が記されている程度。

 といった具合です。

 

「索引」が失われた理由がわかるケース

 そして、「索引」未収録の理由が、検索システム内の別の文書によってはっきり確認できるケースがこれ。

 第86回帝国議会 貴族院 附録(本会議)

 中身はたったの1ページで、全文は次の通り。 

大日本帝国政府
 貴族院議事速記録索引は印刷局が空襲に因る罹災の為原稿焼失し再製されない

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」

 

 第86議会といえば、会期が昭和19(1944)年12月26日~昭和20(1945)年3月25日までの、つまり大戦末期の通常会。

 詳細はわかりませんが、おそらくは「索引」を一度は製作して印刷局へ持ち込んだものの、そこで空襲に遭って原稿が失われてしまい、作り直しもしないことになった――というストーリーを想像させる内容です。

 帝国議会の重要文書といえども無謀な戦争の災禍を免れ得なかったわけで、実に痛ましい出来事というほかありません。


 【続く】

2020/12/22

「索引」事件簿File.1【120年前の誤記載】 #国会会議録の使われ方 その7

「索引」事件簿File.1【120年前の誤記載】

 本連載ではこれまで、検索システムの運用開始以前は「索引」をもとに国会会議録の利用が行われていたことを述べてきました。

 現在では影の薄い存在ですが、「索引」が重要性を保っていた時代には、その作成や利用めぐって数々の事件(これが結構あるんです💧)が惹起していたようなのです。

 そのあたりの事情を今後数回にわたって見ていきたいと思います。

 

帝国議会の「議事速記録索引」

 ところで「索引」は、戦後の国会会議録についてだけでなく、戦前の帝国議会「議事速記録」(=両院本会議の速記形式の記録)でも作成されていました。
 これら「索引」は、「帝国議会会議録検索システム」にも収録されています。

 

 余談:帝国議会の「索引」は現在でも実用性あり! 

 「帝国議会会議録検索システム」ですが、戦前分は「索引」がテキスト化されているものの、会議録本文は画像版しか提供されていないのが現状です。そのため「索引」がキーワード検索に準ずる手段となる得る場合があります。
 「帝国議会会議録検索システム」を利用の際には、「索引」の活用も念頭に置くと探索の幅が広がるはず。

 

 話題を戻します。

 今回はサンプルとして、本連載の第4回で取り上げた第14議会(明治33年=1900年)を用いて、帝国議会「索引」の世界を覗いてみましょう。

 貴族院と衆議院とでは、「索引」のレイアウトや項目の分類方法が異なりますが、とりあえず貴族院版(「第14回帝国議会 貴族院議事速記録索引」)はこんなふうです。

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」

 

 件名別、事件類別、発言者別の「索引」が収録されていますが、事項索引はありません。
 また、並びがアイウエオ順ではなくイロハ順であることも時代を感じさせます。

 そして、連載第4回で取り上げた「明治二十二年法律第三十四号中改正法律案」(決闘罪の処罰を軽減する法案)は、貴族院版「索引」の22ページ目にありました。

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、赤線は@kokkaipatrol

 

 中段の「二、二一」「二、二三」が審議が行われた日付、下段の「六七五」「七二一」などの漢数字がページ数です。

 法案の審議経過(この事例でいえば、貴族院で法案が付託されてから否決されるまで)がわかるようになっており、紙ベースで議事速記録を利用するしかなかった時代に貴重なアイテムだったことは疑いないでしょう。

 

「索引」の編集ミス

 一方でやむを得ないことですが、この「索引」には誤記などの編集ミスも紛れ込んでいます。
 全体でミスの割合がどの程度なのかはわかりませんが、私が部分的に調べた限りでは誤記が少なくなさそうだという印象を持ちました。

 さきほどの「明治二十二年法律第三十四号中改正法律案」にしても、貴族院版は問題ありませんが、衆議院版(「第14回帝国議会 衆議院議事速記録索引」)では5箇所で「明治二十九年~」と年号を誤って記載しています。
 シリーズ第4回目でも触れましたが、そもそも衆議院の議事速記録で「明治二十九年~」と誤記されており、これが「索引」のほうにも影響してしまったのではないかと私は推測しています。

 しかも、同法案に関する衆議院版「索引」の誤記はそれにとどまるものではなく…。

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、傍線は@kokkaipatrol

 

 ①法案名が間違っている(前述の通り)

 ②「木村格之輔」議員の発言として分類されるべきところ、誤って「木村誓太郎」議員の発言とされている

 ③「木村格之輔」議員の名前を「格之助」と誤植

 

 かなり派手にミスっていらっしゃる(-ω-;)ウーム

 「索引」の編纂、やっぱり大変な作業だったのでしょうね。。。
 苦労が偲ばれます(__)


 【続く】

2020/12/11

審議の材料が速記録しかなかった件 #国会会議録の使われ方 その4

審議の材料が速記録しかなかった件

 "現在と比べると"閲覧するのに一苦労だったというかつての国会会議録。

 とはいえ、何だかんだ言っても会議録(議事速記録)は、国会(帝国議会)の議員たちにとって比較的入手しやすい資料でもあったようです。

 それどころか帝国議会の様子をよくよく見ていきますと、速記録をもっぱらの頼りに法案審査に臨んだという場面も出てきます。

 またそこでは、貴衆両本会議の「議事速記録」の優れた速報性により、数日後には次の議会審議へと反映されうる環境があったことも見えてまいります。

 

決闘罪処罰軽減法案の審議から(1900年、帝国議会)

 明治33(1900)年の第14回帝国議会に、「決闘罪処分法中改正法律案なる議案が上程されました。(なお、衆議院の審議途中で件名が「明治二十二年法律第三十四号中改正法律案」へと変更)

 刑法とのバランスを考慮して、決闘罪への刑罰をもっと軽くすべきという大義名分で提出された、衆議院の議員立法です。

 その刑罰を「軽くする」という度合もかなり大胆なもので、たとえば、
 「第二条 決闘ヲ行ヒタル者ハ二年以上五年以下ノ重禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス
 という現行の条文を、
 「
第二条 決闘ヲ行ヒタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ又ハ四円以上四十円以下ノ罰金ニ処ス」(衆議院修正後の条文案)
 すなわち、重禁錮の期間を大幅に短縮の上、罰金を付加する条件から「又は」に置き換えるという提案です。

 また、同法案が審議されたのは第14議会の会期末であり、

 2月14日(水) 衆議院 審議入り(特別委員に付託)
 2月16日(金) 衆議院 委員会審議
 2月19日(月) 衆議院 本会議(委員長報告と採決)
 2月
21日(水) 貴族院 審議入り(特別委員に付託)
 2月23日(金) 貴族院 委員会審議/本会議(委員長報告と採決) <同日に会期終了>

 という、なんとも慌ただしい日程でありました。 

 

衆議院では「異議なし」で可決、貴族院では「起立者なし」で否決 

 法案審査自体も実にあっさりしたもの。
 衆議院本会議での委員長報告(木村格之輔議員=憲政本党)にしても、

 ①政府はこの法改正案に同意しなかった

 ②だが、決闘罪が刑法との権衡を失していることは政府も認めた(政府としては刑法改正時に是正するつもり)

 ③ならば決闘罪は改正するのが当然だ

 くらいしか触れていません。


〇木村格之輔君(百七十三番)
 極簡単に本案委員会の経過を御報告致します、委員会に於きましては御手許に御回し申しました通修正可決致したのであります、それで唯政府の意向だけを諸君にちょっと御報道致します、政府に於ても此案の此元の決闘罪に対する罪の権衡を失して居ると云ふことを認めて居る、認めて居るけれども、是は刑法の改正のときにやる積であるからと云ふので同意をせなかったのであります、併し既に法律の不均衡なることを、認めました以上は、直ちに之を引直すと云ふことは当然のことでありますから、委員会の修正の通決議あらんことを望みます
 

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、強調筆者(@kokkaipatrol)


 <WARNING!>
 当時の議事速記録で「明治二十九年法律第三十四号中改正法律案」となっているのは明らかな誤記で、正しくは「明治二十二年」。
 衆議院の議事速記録では他の箇所でも「明治二十九年」と誤記されており、利用時に要注意。

 

 衆議院では前述の委員長報告の後、すぐに読会省略の動議があり、「異議なし」で衆議院は難なく通過

 ところが一転、4日後(2月23日)の貴族院本会議では「起立者なし」(=賛成者なし)で同法案が否決されてしまいます。

 両院の構成がまったく異なる帝国議会では、議決の食い違いは珍しくありませんでしたが、とはいえなかなか極端な結果ですね。

 

衆議院の「議事速記録」を4日後には貴族院で活用

 ここまで述べような事情も念頭に、貴族院側の議事速記録、特に2月23日の委員長報告(子爵曾我祐準 [そが・すけのり] 議員)を眺めてみると、当時の議会審議の一端が垣間見える発言がチラホラと出てまいります。


〇子爵曾我祐準君
 明治二十二年法律第三十四号中改正法律案、此案の委員会の結果を報道致します、本案は今日諸君も御承知の通り午前の会議中退席を願って委員は審査を致しました、此案は何事の案かと申しますれば決闘に係る案であります、 [中略] 二十二年の此決闘に対する法律を非常に軽くすると云ふ案であります、それで勿論是は衆議院案のことでありますに依って如何なる理由で此必要を認めたかと云ふことは分かりませぬ、衆議院案のことでございますから……併ながら速記録抔[など]に拠[よ]って見ますると他の刑法に対して決闘を比較的重く見て居る、それで権衡を失して居る、と言ふやうなのが精神らしいであります、それで政府委員も同意したとはありませぬけれども……同意してはありませぬ、刑法の修正は追々必要を認めて居るが是のみ今改正することは賛成しなかったと云ふやうに答へられて居るやうであります、貴族院の委員会に於ては今日でありまして政府委員に其席に出て貰ひまして意見を聞く暇がございませぬでありました、何分御承知の通り非常に急ぎましたから、唯今までも時間が掛るやうでございましたら十分に調査も出来ましたらうが、之を調査しまする時分には左程時間があらうとも思ひませぬでありましたに依って、政府委員に委[くわ]しい説明を請ふ暇もありませぬ、それで委員会の決議は一向此案には賛成を誰も致しませぬ、今日別に之を軽くする必要は認めない、それに依って委員会に於きましては是は否決すべきものと委員一同一人の不同意者もなく否決と極[きま]りましてございます、此段御報告を致します


出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、強調筆者(@kokkaipatrol)

 この曾我委員長報告から読み取れそうなこととしては、

 ①衆議院から出た議員立法の趣旨を貴族院側はよく知らない(帝国議会では、もう一方の院から送付されてきた議員立法の場合、提案者自らが出席しての趣旨説明は行われていなかった様子)

 ②貴族院の特別委員としては、決闘罪に対する政府の立場を重視しており、政府委員から意見を聴取したかったのだが、会期中最後の本会議に間に合わないと思い断念した(ところが本会議の議事が遅延していたため、結果論としては政府委員出席のもと法案を審査する時間を確保することは可能だった)

 ③従って、委員会の審査にあたっての情報源としては、衆議院の速記録のみに頼らざるを得なかった(提出者の意思も政府委員の意見も、速記録によって間接的にその概略を知った

 ④特別委員で相談した結果、本改正案は不要であり否決すべしと全員一致で意見がまとまった

 ということになりましょうか。

 2月23日に貴族院の曾我委員長が参照したという「速記録」は、衆議院・木村委員長の報告を掲載した2月19日の議事速記録で間違いないでしょう。

 例の葦名ふみ様の論文『「国会会議録」前史 : 帝国議会 議事録・委員会の会議録・速記録・決議録の成立と展開』によりますと、帝国議会の『本会議の議事速記録は、官報の号外として公表され(議会開設当初の例外を除く)、会議の翌日付の官報に掲載された。』(「レファレンス」2013年1月号、p.70)という極めて速報性の高いものでした。4日後の議会審議に反映させることも十分に可能であったと推測されます。

 こういう何気ないところにも、国会会議録にまつわる歴史や、そのときどきの会議録ユーザーの姿がふいに顔を出すもので、面白いなあと思います。

 以上のいきさつを経て、「明治二十二年法律第三十四号(決闘罪ニ関スル件)」は存続することとなりました。

 その後、刑法のほうは諸般の改変がありましたが。決闘罪についてはその改廃に関する議案が上程されることはなかったようです。
 結果、130年以上前の条文が一度も変更されることなく、そのまま生き続けて今日に至っています。


おまけ:決闘を処罰すると国民・国家の元気を害する!?――衆議院委員会会議録から

 ところで、ここまでは本会議の議事速記録がどのように利用法されていたかに焦点を当ててきたため、委員会審議への深入りは避けてきました。

 しかしながら、決闘罪改正案に関する衆議院の委員会会議録(残念なことにこの委員会には速記官が付いておらず、要約版の会議録なのですが)を調べてみますと、なかなか驚くような論戦が展開されていますので、ついでにご紹介いたします。

 まずは2月16日の委員会から。
 決闘罪の処罰軽減法案提案者であり、特別委員長でもあった木村格之輔
氏の発言です。


〇委員長木村君
 決闘は双方の契約に依りて為すものなり然るに刑法の規定に於ける一般の犯罪例へは自殺に関する罪の如きに比し其の刑を重く為したる理由如何


 刑法との比較で刑が重すぎるという主張はともかく、「決闘は双方の契約」だからという理由付けは、素人的にはやや意表を衝かれました。

 衆議院の本会議では委員長報告に「異議なし」で通過した同法案ですが、委員会のほうでは実は委員の意見が割れていて、最後は委員長裁決により可決したそうですから、木村氏の発言権の大きさが想像できようかと思います。

 

出典:国立国会図書館デジタルコレクション「衆議院委員会会議録 第14回帝国議会」

出典:国立国会図書館デジタルコレクション「衆議院委員会会議録 第14回帝国議会」


 また、同じ特別委員会には、ここまで解説してきた改正案とは別に、決闘罪を廃止すべしというより過激な法案も付託されていました。
 この決闘罪廃止法案のほうは、2月20日に委員会で審査が行われていますが、憲政党・持田直[もちだ・ちょく]議員の提案理由がこれまた物騒な穏やかならざるもので。


〇委員持田君
 本案提出の理由を陳述せむに明治二十二年法律第三十四号は国民の志気を奮起し国家の元気を振興するに害あるのみならす相互の承諾上より成立したる格闘たるにも拘わらす其の殺傷したる者を罰するに他の破廉恥心より出てたる謀故殺罪を犯したるものと同一の刑を以て罰するか如きは実に非理不当の甚しきものなり之れ本案を提出したる所以なり


 "決闘を処罰すると国民の志気と国家の元気を害する"って、ぉぃぉぃ……(; ・`д・´)

 さすがにこの廃止法案は否決となりましたが、その理由というのも、


〇委員長木村君
 本案提出者の意思は決闘罪なるものは他の破廉恥罪即ち謀故殺罪に比して大に恕[ゆる]すへく寧ろ罰せさるを可とすとの説も一理なきにあらすと雖[いえど]若本法を廃せは以後決闘を為す者は刑法の各本条に依て罰せらるへく却て決闘処分に比し重刑を負はさるへからす果して然らは本案を提出したる理由毫[ごう]も貫徹すること能わさるのみならす、世上往々法律に暗き輩決闘罪処分法の廃止を聞き喜むて之を犯すときは社会の安寧秩序は何を以て維持することを得るや而して決闘罪は敢て酷刑を科すへき必要なきを以て既に本員外一名より現行決闘処分法(明治二十二年法律第三十四号)の改正案を提出し既に衆議院の議決を経たり故に本案は之を否決せむことを望む


 廃止法案にも一理あるがとの前置き付きで、

 (1)決闘罪を廃止すると、刑法が適用され却って重罪になるおそれがある(それを避けるために、決闘罪の処分を軽くする法案を前に可決しておいた)

 (2)法律に暗い連中が喜んで決闘を始めるかも知れず、さすがにまずい

 というものだったようです。

 

出典:国立国会図書館デジタルコレクション「衆議院委員会会議録 第14回帝国議会」

 そういえば帝国議会時代の衆議院では日常的に実力行使の乱闘事件が起きていたとも聞きます。
 議員自身がそんな調子ですから、「
相互の承諾上より成立したる格闘」ならむしろ元気が宜しいといった、暴力容認の思想が蔓延していたのかも……((+_+))

 このような背景をもって衆議院から提案された決闘罪処罰軽減法案が、政府の反対に遭い、貴族院の総スカンによって葬り去られたのも無理はないなあと個人的には思ってしまうのでした。

 良い子の皆さん、決闘は犯罪です。絶対にやめましょう。


 【続く】

2020/12/08

図書館通いで速記録を調査――議員の論戦準備、戦前編 #国会会議録の使われ方 その3

図書館通いで速記録を調査――議員の論戦準備、戦前編

 速記形式の会議録が国会議員にとって第一級の資料という事情は現在だけのことではなく、帝国議会の時代もまたしかり。

 ここでは実例を1つだけ。1915年の衆議院委員会議録から、第36回帝国議会 衆議院 明治四十五大正元年度予備金支出の件外十件(承諾を求むる件)委員会 第4号 大正4年6月4日を掲出します。

 齋藤隆夫委員(立憲同志会=当時の第二次大隈内閣与党)と、古谷久綱委員(立憲政友会=当時は野党)の論争中、どちらがより過去の議会審議の経緯に精通しているかを張り合う場面があり、両者の会議録マニアぶり、もとい勉強家ぶりが垣間見えます。 

 余談その1。
 この
委員会では、政府が行った予算超過・予算外支出(いわゆる「責任支出」)の事後承諾議案が焦点となっていますが、そちらに深入りする余裕がありませんので詳述は避けます。
 もし興味がおありでしたら、
<論説>大正初期の「剰余金支出」問題 : 第二次大隈内閣期を中心として』(国分航士史林』2015年5月)をご参照さいませ。

 余談その2。
 この6月4日の委員会は、対政府の「質疑」ではなく(質疑は前回までの委員会で済んでいた)、委員同士が議案への賛否とその理由をぶつけ合う「討論」を行う場でした。
 逐条的な審査を行っていることと合わせて、現在の国会には見られない委員会運営であり、議会制度史の観点からも学ぶ所がありそうです。

 

齋藤委員の発言① "違憲論は決着済み。過去の議論は議院の図書館で速記録をひもとけばわかる"

 それでは本題。委員会議録の引用です。
 若干長いですが、とりあえず下線+赤字の部分を拾って読んでいただければと思います。

 

 まずは齋藤委員の発言。

 「責任支出」違憲論を主張する委員(立憲国民党・野添宗三氏のこと)があるが、その議論はもう二十年来の議会審議で尽くされて決着済みだ、議院の図書室に行って速記録を読めばわかる(ここが重要)と言っています。

 

〇齋藤隆夫君
 責任支出の憲法上の観察に付きまして議論が起って居ります、 [中略] 憲法を運用するところの議政道徳は、議会が一度与へたるところの解釈は容易に変更すべからずと云ふ義務を議会に向って命じて居ると思ふのであります、それ故に昨年解釈したるところをば本年は之を改める、又本年始めたる事例をば明年に於て之を打壊すと云ふことは、議政道徳の排斥するところである、殊に此責任支出の如きは明治二十四年以来の政府も議会もあらゆる議論を尽しまして、政府は之をば違憲に非ずと認め、議会も之を是認し、更に進んでは憲法制定の最高権力者も之を認めて、二十年以来動かすべからざる事例となり、解釈となって居るのであります、 [中略] 個人としては何れも意見はあります、併し是は個人の意見であって、国家の機関たる議会の意見ではない、殊に此議論は長い間議会に於て繰返されて居るところの議論でありまして、如何なる議論が現はれたと云ふことは、議院の図書室に行って速記録を繙[ひもと]きましたならば、其等の議論の上には最早黴[かび]が生えて居る、 [中略] 此事は最早議論は尽きて居る、議会に於て議論があるのみならず、二十年来の速記録に於て繰返されて居るから、是に対して意見を闘はすのは全く無用のことであると思ふ

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、傍線・強調筆者(@kokkaipatrol)

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、傍線・強調筆者(@kokkaipatrol)

古谷委員の反論 "与党諸君は野党時代に違憲論を唱えていた"

 対して古谷委員、

 ①初期の議会では「責任支出」への異論が出ており、憲法解釈が定まっているというのは違うのではないか

 ②齋藤委員は憲法違反説の議論自体をすべきではないと言うが、現在与党の諸君が昨年までは野党として違憲説を唱えていたではないか

 と反論を行います。

 但し、古谷氏自身は「責任支出」違憲論者ではなさそうで、持論を述べる場面では、合憲であることを前提に、政府が行った支出の"中身"への批判から議案の一部を不承諾とすべきと主張されています。


〇古谷久綱君
 [前略] 齋藤さんの御議論に依りますと、此委員会及本会議で憲法上の議論は一切しない方が宜い、其訳と云ふものは個人の議論はいろいろ違ったことがあるであらうけれども、此衆議院即ち憲法運用の機関たるところの帝国議会の一部の衆議院に於ては、もう既に明治二十四年以来定まった公の解釈があるのであるから、それに従はなければならぬと云ふ御話でありますが、私の調べましたところに依りますと、必ずしもさうではないやうであります、不承諾を唱へましたのも、第四第六議会の如き明かに不承諾を唱へて居るのであります、故に一定不変の解釈が公けの機関の上にあると云ふことを仰しやるのは、少し事実に違って居りはせぬかと考へるのであります、それから又もう一つ私は甚だ奇妙に感じますることは、私自身が唱へ出したことではありませぬが、今日野添さんから憲法違反論が出ましたに付て、此違反論はすべきものではないと云ふ御話でありますけれども、現に昨年の議会までは今日の政府与党の諸君が口を揃へて此違憲論を唱へて来たのであります、ここに委員となって御出になる御方でも其論を侃々諤々御述べになった御方は、御名前を指せば幾人もありますけれどもそれは控へますが、皆さん非常な御議論をなさって御出でなったのであります、 [後略]


 

齋藤委員の発言② "古谷君は毎日図書館に通って速記録を調べたと聞いたが……"

 古谷委員の問い対して齋藤委員、まずは論敵・古谷氏の熱心な調査ぶりに敬意を表したうえで(ここが再び重要)、 

 ①衆議院ではじめから憲法解釈が定まっていたわけではないが、議論を尽くした末に、第9議会で解釈が定まり、以降は定着している

 ②現与党の昨年までの違憲論については知らない。齋藤個人の見解はこれまで述べてきた通りで、衆議院という一機関がそう簡単に憲法解釈を変えるべきではない

 との回答を行いました。


〇齋藤隆夫君
 古谷君の質問に対して御答を致します、古谷君は聞くところに依ると、今度議員に当選せられたる以来、毎日本院の図書館に通ふて責任支出に関する速記録を初から終まで御調べになって居ると云ふことを聞きました、実に御熱心の程は感心致して居るのでありますが、私が最前申しましたところの二十年来一定したところの解釈と云ふことをば少し誤解になって居ると思ふ、私は此問題が明治二十四年に初めて議会に表はれた以来、議論がなかったとは言はないのであります、政府も議論をし、議会も議論をし、双方憲法上の議論を十分戦はせた末に於て此解釈が一定した、斯う云ふことを申して居るのであります、それをば議会の上に申しまするならば、第九議会まではいろいろの意見があったのである、 [中略] 委員会に於て否決し、本会に於て可決したと云ふやうな例があるが、第九議会に至って全く争議が一定して、政府も違憲にあらずと断じて、議会も之を是認して、それより今日に至るまで、此責任支出に付て憲法違反なりと云ふ理由を以て不承諾を与へたことは唯の一回もないのであります、此事を予め御承知あらんことを希望致します、それから次に昨年来政府与党の間に違憲論があった、是は本員の知るところではない、同志会が如何なる意見を唱へたか、中正会其他の人が如何なる意見を唱へたか、それは私の知るところではない、私自身の解釈としては、此問題は既に議会と云ふ憲法上の機関に依って一定して居る解釈であるから、容易に動かすべきものではない、之を動かすと云ふやうな寧ろ軽率なることは慎まなければならぬと云ふ私一己の意見でありますから、其点は誤解のないやうに願ひます

 

出典:国立国会図書館「帝国議会会議録検索システム」、傍線・強調筆者(@kokkaipatrol)

  齋藤氏や古谷氏が速記録を調査するために通ったという衆議院の図書館、想像するだけでワクワク致します(((o(*゚▽゚*)o)))

 

 【続く】

2020/09/06

Twitter投稿のまとめ

過去のTwitterでの投稿のうち、シリーズとして連投したものをまとめてみました。

①第200国会(2019年秋の臨時会)の衆議院消費者特別委員会ニュース

②なぜ政府参考人の招致を多数決で決定してはならないか?

③国会会議録のデータベース化と一般公開を求めた、元信堯議員の質疑(1993/3/5)

④日本国憲法第24条(家族関係における個人の尊厳と両性の平等など)の貴族院における修正案審議

これらのうち、③については周辺事情も含めて後できちんとまとめてみたいと考えているテーマです。

なお、これらのまとめにあたっては、すまとめさんのサービスを利用しました\( 'ω')/

2020/06/11

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その5)

シリーズ最終回です。

7、明治憲法第七十三条の憲法改正手続きに依ることは、新憲法が民定憲法であるとの建前と矛盾があるのではないか

「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」
と謳う一方、手続き面では明治憲法の条項を利用する憲法改正として行われました。

このことから、憲法学的にどんな問題が具体的に生じてくるのか?が今回の主題です。

―――――
〇宮澤俊義君 ……最後に第七、民定憲法の建前と、此の度の憲法改正手続との関係は、どうであるかと云ふことであります、此の憲法改正草案は、国民が之を制定すると云ふ建前、所謂民定憲法、民が定める憲法と云ふ建前に立脚して居ります、此の事は三月六日の詔書でも、亦改正案の前文でも極めて明白であると思ふのであります、所で政府が此の憲法改正案は、明治憲法第七十三条に依るものとして取扱つて居られるのでありますが、是は民定憲法と云ふ建前と何処迄両立するでありませうか、明治憲法第七十三条は御承知の通り、所謂民定憲法の建前は採つて居りませぬ、憲法改正は議会の議決と、天皇の裁可に依つて成立する、と云ふ建前を採つて居ります、衆議院の速記録に依れば、金森国務大臣は、此の改正案は明治憲法第七十三条に依るものでありますから、勿論議会の議決の外に、天皇の裁可があつて初めて成立する、と説明していらつしやいますが、若しさうとすれば此の改正は貴族院の意思に反しても、又天皇の意思に反しても、成立することが出来ないと云ふことになるのであります、明治憲法第七十三条の建前から言へば当然さうなくてはならないのであります、併しさう云ふ建前に基く憲法改正、貴族院の意思に反しても、亦天皇の意思に反しても成立することが出来ないと云ふ憲法改正の前文が、どうして日本国民は此の憲法を確定すると宣言することが出来るのでありませうか、
―――――

大日本帝国憲法の第73条に基づいて改正を行うということは、新憲法を成立させ公布・施行するまでの間に、

・帝国議会(衆議院・貴族院の両院)による議決
・天皇による裁可

などが必要となります。

普通選挙により選出された衆議院はともかく、貴族院や天皇の許可がなければ新憲法が成立しないのでは、「国民が確定した憲法」(=民定憲法)という前文の建前とは矛盾するのではないか、というのが宮澤議員の指摘です。

天皇の「裁可」ですが、大日本帝国憲法第6条にも「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」との規定があります。

明治憲法下では、帝国議会が法律案を可決するだけではダメで、天皇による「裁可」の手続きがあって初めて法的効力が生じるという仕組みになっていました。
実際上は天皇が「裁可」を拒否した例はないようですが、とはいえ天皇が認めないと法令が発効しないというのは、民定憲法の建前と矛盾するのではという懸念が生じます。

因みに現在の日本国憲法をよく読むと、「前文」よりさらに前に「上諭」(じょうゆ)という文章と、国務大臣による「副署」が付されていて、

―――――
朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽
―――――

これが「上諭」ですが(下線は筆者)、やはり天皇が「裁可」して公布に至ったことがわかりますね。

2020/05/31

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その4)

もともとは令和元年を期しての改元記念企画だったのに、1年近いブログ放置で気付けば令和2年も半ば近くに😓

日本国憲法の基本原理の1つ「国民主権主義」をめぐる、1946年8月26日、第90回帝国議会貴族院での宮澤俊義議員vs.金森徳次郎国務大臣の論戦を題材にした連載第4回目。

いよいよ、宮澤先生のかの有名な学説「八月革命説」の核心部分が登場します!

おさらいしますと、宮澤議員が憲法学の専門家の立場から質したのは下記の7点でした。
(うち連載前回分までで1~5を取り上げました)

 1、ポツダム宣言受諾は、国民主権主義の承認を意味する

 2、国民主権主義は、終戦までの憲法の根本とは原理的に異なるものである

 3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

 4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

 5、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、従来の国法上は「国体の変革」にあたる

 6、国民主権主義の採用を内容とする憲法改正は、明治憲法第七十三条の手続きに依っていると同時に、それを超えて行われるものである

 7、明治憲法第七十三条の憲法改正手続きに依ることは、新憲法が民定憲法であるとの建前と矛盾があるのではないか

残る論点6と7は、憲法改正手続きに関する質問です。

なぜこれが大問題になるのかは、憲法学に親しみが薄いとわかりにくいのですが、このあたりはおいおい考えていきます。

まずは基礎知識として、大日本帝国憲法の改正手続きを定めた第7章第73条を確認してみましょう。
第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
1項が明治憲法改正案を発議する手続きを定め、2項で改正案を帝国議会が審議する際の定足数等を定めています。

注目されるのは、憲法改正案は「勅命をもって」、つまり天皇の権限によって議会に付されるということでしょうか。
繰り返しますが、明治憲法では天皇が「統治権を総攬」(第4条)する主権者であり、かつ憲法制定権者でもあるので、改正手続きについてもしかるべき地位が与えられています。
(とはいえ、憲法の案文を天皇自ら書き上げるなどは帝国憲法下でも絶対に考えられず、実際には政府が作りあげた憲法の案を「勅命」という形で発することになる)

因みに、同じ明治憲法第7章「補則」には、
第75条 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス
との条文もあります。
摂政を置くときとは、天皇が病気等で権限の行使や意思表示ができない状況ですので、主のあずかり知らぬ間に勝手に憲法を変えてはいけないよ!ということなのでしょうか。

いずれにしても、大日本帝国憲法には「憲法改正」の条項があるとはいえ、「君主主権主義」の範囲内での手続きとして想定されているのがポイントです。

ところが1946年に帝国議会に提出された「帝国憲法改正案」は、日本の敗戦と「ポツダム宣言」受諾という激動の情勢を背景に、「国民主権主義」を採用したものでした。

こうしたことから、「君主主権主義」を前提とした明治憲法第73条を使って、「国民主権主義」の憲法を生み出すことは可能か?
という、憲法学上の大問題が提起されるわけです。

一般庶民の側からすると、実生活上のというよりは法理論上の論点なので、いささかわかりにくい面はあるのですが、理論や手続きをないがしろにしてはいけないという憲法学者の熱意ゆえの質問なので、興味か根気のある人はお付き合い願います。

前置きが長くなりました。
宮澤議員の演説を見てみましょう。


6、国民主権主義の採用を内容とする憲法改正は、明治憲法第七十三条の手続きに依っていると同時に、それを超えて行われるものである

―――――
〇宮澤俊義君 ……次に第六点、明治憲法第七十三条に依つて、国民主権主義の採用を内容とする、憲法改正が許されるかと云ふことであります、従来学説では、明治憲法第七十三条に依つて、所謂国体の変革を定めることは許されないとせられて居ります、即ち明治憲法は治安維持法に所謂国体の原理に立脚して作られたものでありますから、其の定める憲法改正手続に依つて、其の国体変革を定めることは、論理的に矛盾であり、法律的には許されないと解されたのであります、従つて若し終戦以前に於て、何人かが此の憲法改正案と同じ内容を持つものを提案したと仮定するならば、其の者が治安維持法違反として、罰せられるかどうかは別としまして、少くとも彼の憲法改正の提案は、恐らく憲法上許されないと考へられたと思ひますが、政府はどう御考になるでせうか、私は此の度の憲法改正草案は、其の前提として「ポツダム」宣言受諾に依つて齎された、我が国の政治体制上の根本的な変革、此の変革は学問的意味に於て、之を革命と呼んでも宜いと思ひますが、其の言葉が若し誤解を招く虞があるとするならば、之を一つの超憲法的な、憲法を超えた変革と呼んでも宜いかと思ひますが、さう云ふ変革を考へなくては、それが憲法上許される所以を説明することが出来ないと思ひます、即ち此の度の憲法改正は、単純な明治憲法第七十三条に依る憲法改正ではなくて、終戦に依つて行はれた、超憲法的な変革に基き、其の根拠の上に、明治憲法第七十三条に依つて、併し同時にそれを超えて行はれる、憲法改正だと思ふのでありますが、如何でありませうか、
―――――

「ポツダム宣言」受諾によって、「革命」とでも呼ぶべき「超憲法的」な体制変革があったため、従来は憲法上許容されなかった(ことによると治安維持法違反にも問われかねない)憲法改正が可能になった。
だから今回の憲法改正は、明治憲法第73条に依拠しつつも、それを超えて行われると法理論上整理しておくべきだというわけ。
これが「八月革命説」です。

さて、次に金森国務大臣の答弁ですが、結論から言うと、「八月革命説」には与しない立場が鮮明です。

―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) ……第六の質問と致しまして、憲法七十三条に依つて国民主権主義の採用を内容とする憲法改正を行ふことが出来ないではないか、斯う云ふ御尋であつたやうに思ひます、若しも日本の此の本当の意味の主権が、此の前後に於てはつきり変つたものと致しまするならば、宮沢君の御質疑の如く七十三条に依つて今回の憲法改正を為すことが、種々なる疑惑を伴つて来る余地があらうと存じます、併し私共は其の前提を異にして居るのでありまして、日本の主権は実質的には変つて居ないと考へて居りまするが故に、憲法七十三条を通じて此の憲法改正案が議会に提出せらるる其の手続の上に於て一点の疑はしき点は伏在して居ないと考へて居るのであります、日本の国家は過去も現在も其の本質に於ては変る所はありませぬ、従つて其の基本の本質に従して前の憲法を基礎として、其の条項に基いて、新たなる憲法の改正案が立法の機関に付せられると云ふことに一点の疑も持つては居りませぬ、
―――――

金森国務大臣も「日本の…主権が…はっきり変わったものと致しまするならば」、宮澤議員の指摘が正しいと認めているように、ここでもやはり争点は、憲法上の主権者が「君主」から「国民」に変わったことを正面から認めるか否かです。

政府側の立場は、日本国家の本質は明治憲法でも新憲法でも変わらない、だから明治憲法第73条の手続きに依ることに疑念が生じることもないという回答でした。

(続く)

2019/06/15

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その2)

前回の続き。

明治憲法の「君主主権主義」と、新憲法下の「国民主権主義」との区別を曖昧にしかねない答弁を繰り返した当時の日本政府。

宮澤俊義議員は、
(明治憲法を)国民主権主義と言ふならば、どのやうな国家も苟くもそれが多少でも断続的生命を有する限り、総て国民主権主義であると言はなくてはならなくなりますし、それでは君主主権主義と国民主権主義との原理的な区別は全く意味を失つてしまふ
、政府の態度を厳しく批判していました

なお、前回見た部分は「ポツダム宣言」受諾と主権の所在の関係が主論点でした。
対してここから先の何問かは、1946年当時審議中の憲法改正案の規定に焦点が移っていきます。


3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

宮澤氏はここで、憲法改正案の条文を見れば国民主権主義が採用されていることは明白であると思うがどうかと、基本点の確認を行っています。

―――――
〇宮澤俊義君 ……次に第三点、新憲法草案は右に述べたやうな国民主権主義を採用して居ると思ふがどうかと云ふ点であります、是は憲法の前文、其の他から言つて極めて明瞭であると思ふのであります、前文及び第一条の字句に付て衆議院で多少の修正が行はれました、私は此の修正が絶対に必要なものであつたとは必ずしも考へないのでありますが、唯一部には政府原案のやうな表現は必ずしも単純な国民主権主義を意味せず、多かれ、少なかれ、それとは違つたものを意味すると云ふ見解が行はれ、現に此の憲法改正案の定める国民主権主義は君民共治主義であるとか、更にそれは必ずしも天皇主権主義と根本的に違ふものでないと云ふやうな見解迄認められた位であります以上、さう云ふ誤解乃至は曲解の生ずる余地を防ぐ為には、此の修正は適当であつたと言へようと思ひます、併し何れにせよ、憲法改正案が国民主権主義を採用して居ることは、此の修正の有無に拘らず明白であり、又それは「ポツダム」宣言受諾に依つて最終的統治形態が、自由に表明せられた人民の意思に依つて定まるとする原理を承認した日本の憲法改正案としては、当然の態度であると思ふのでありますが、如何がでありませうか、
―――――

なお、宮澤氏が言及している政府原案と衆議院修正についても簡単に。

天皇(明治憲法ではこちらが主権者だった)の地位と、国民(新しく主権者になったのがこちら)の関係性を規定した、極めて重要な条文が第一条です。

ところが政府が帝国議会に提出した改正原案では、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く
という表現ぶりになっていて、これでは新憲法下での主権の所在が不明確だと批判が噴出。
そこで衆議院の審議で修正され、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く
という現行の条文に落ち着いたという経過があったのでした。

「新憲法は国民主権主義だ」というシンプルなこの問いには、さすがの金森大臣も難解な論理を繰り出す余地はなく、ほぼ素直に事実関係を認める答弁をしています。

―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) ……第三に憲法改正案は国民主権主義を採用して居ると信するが如何か、是は御説の通りであります、国家の意思の源泉は国民の全体に在ると云ふ原理を採る、其の原理に基いて政府原案も、又衆議院の修正に依りまする文章も記述せられて居る訳であります、
―――――



4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

2019/05/06

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その1)

天皇の代替わり、平成から令和への改元と、天皇制が何かと話題のいまだからこそ、天皇と国民の関係性が明治憲法下と日本国憲法下ではどう変わったのか、きちんと認識を持っておきたいところです。

今回は、帝国憲法改正案が審議されていた1946(昭和21)年の第90回帝国議会から、貴族院本会議における宮澤俊義[1]議員と、金森徳次郎[2]国務大臣の有名な論戦(同年8月26日)を題材とします。
会議録はこちら

[1]宮澤俊義(みやざわ・としよし)
憲法学者。1899(明治32)年生、1976(昭和51)年没。1923(大正12)年東大卒、1925(大正14)年同助教授、1934(昭和9)年教授として憲法講座を担当。美濃部達吉の後継者として右翼陣営の攻撃を受けつつも、合理主義的憲法理論を展開。戦後は幣原喜重郎内閣の改憲作業、また貴族院勅選議員として日本国憲法の帝国議会審議に参加。ポツダム宣言の受諾が国体の変更にあたるとする「八月革命説」を唱えて政府を追及。1959(昭和34)年東大を停年退職、以後1969(昭和44)年まで立教大学教授。(参考「世界大百科事典 第2版」)

[2]金森徳次郎(かなもり・とくじろう)
憲法学者、官僚。1886(明治19)年生、1959(昭和34)年没。1912(明治45)年東大英法科卒。法制局に入り、法制局書記官などを経て、1934(昭和9)年岡田啓介内閣の法制局長官。著書「帝国憲法要綱」(1921年=大正10年)は高等文官試験の参考書として大いに読まれたが、その天皇機関説は美濃部事件に際して攻撃され、1936(昭和11)年辞職。戦後1946(昭和21)年、第1次吉田茂内閣の国務大臣として新憲法制定に携わる。議会における憲法審議の答弁にあたり、宮澤俊義貴族院議員の「八月革命説」と対立した。1948(昭和23)年~1959(昭和34)年にかけて国立国会図書館の初代館長。(参考「世界大百科事典 第2版」「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

経歴からわかるように、憲法学の専門家同士が天皇制や国民主権について議場で論争した、極めて貴重な記録です。
(とはいえ、金森国務大臣は政府代表の立場なので、答弁内容がすべて金森氏個人の見解であったかは検証が必要か) 
 
宮澤議員の主張は、要約すると次の7点。

1、ポツダム宣言受諾は、国民主権主義の承認を意味する

2、国民主権主義は、終戦までの憲法の根本とは原理的に異なるものである 

3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

5、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、従来の国法上は「国体の変革」にあたる

6、国民主権主義の採用を内容とする憲法改正は、明治憲法第七十三条の手続きに依っていると同時に、それを超えて行われるものである

7、明治憲法第七十三条の憲法改正手続きに依ることは、新憲法が民定憲法であるとの建前と矛盾があるのではないか

後で見るように、新憲法下における「主権」の所在や国家の統治形態について、政府側は曖昧な態度をとっていました。
宮澤氏としては、憲法の専門家として事態を看過できないと考えたのでしょう。

本会議なので、まず宮澤議員が質問をまとめて行い、それに金森国務大臣がまとめて答えていますが、ここでは便宜上、論点ごとに質問と答弁を対比していきます。
 
 

〇導入部

宮澤議員は、審議中の憲法改正案について、不完全さはあるとしつつも、日本の民主化へ向けた「重要なる一歩前進」と評価し、改正案の成立を希望するとの基本姿勢を表明。
そのうえで、「原理的な問題の若干」について「箇条的に」質問すると切り出しています。 

―――――
〇議長(公爵徳川家正君) 宮澤俊義君
  〔宮澤俊義君登壇〕

2019/04/22

唇と舌をもてあそぶ愛国者(補遺)

前回まで取り上げた、1929(昭和4)年の貴族院議員・二荒芳徳氏の質問に関する補遺ないし重箱の隅を若干。


①二荒芳徳氏は声が大きな人物だった?

本会議では登壇して質問をするのが通例。
ところがこのときの二荒氏の質問の冒頭部分を見ると、

―――――
〇副議長(侯爵蜂須賀正韶[1]君) 二荒伯爵の御登壇を望みます

〇伯爵二荒芳徳君 本員の質問は頗る簡単でありますから、自席から御許しを願ひたうございます

〇副議長(侯爵蜂須賀正韶君) 宜しうございます
―――――

[1]蜂須賀正韶(はちすか・まさあき) 政治家。侯爵。1871(明治4)年生、1932(昭和7)年没。1924(大正13)年~1930(昭和5)年貴族院副議長を務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

演壇ではなく、議員席からの発言を許されています。
また、首相答弁に対して二荒議員が再質問を求めた際、今度は議長との間でこんなやり取りも。

―――――

〇伯爵二荒芳徳君 座席から質問いたしたいと存じます

〇議長(公爵徳川家達[2]君) 二荒伯爵の大きな御声なら宜しからうと考えます
―――――

2019/04/19

唇と舌をもてあそぶ愛国者(下)

前回の続きです。

ここまで道徳的義憤をぶちまけてきた貴族院議員・二荒芳徳氏。
とはいえ議場で抽象論を振りかざすだけではまずいと思ったらしく、
又思想の善導に、或は国粋を唱へ、或は愛国を唱へますけれども、其焦点にして真に我々昭和時代人の悩みを理解しない所の主義主張を云ふようなものは、果たして是れ真の愛国であり、国粋でありませうか 
との前置きのもとに披露したのが、こんなエピソード。

―――――
〇伯爵二荒芳徳君 ……私は昨秋京都に参りまして斯かる事例を聞いたのであります、……京都と滋賀の境に四明岳と云ふ比叡の一峰があるのであります、此四明岳に明治天皇の御聖徳標を建てやうという企があるのであります、而して此会の会員には皆著名な、殊に私共の尊敬する人々が入って居られるのでありますが、其四明岳の頌徳表の頂きには百万燭光の電気をつけまして、昼夜間断なく八洲を照らすと云ふ計画であるさうであります
―――――

どうやら明治天皇の徳をたたえる記念碑か何かを建てようという計画らしい。
ここまでは特別な意外性はありません。

ただ、その「御聖徳(頌徳?)標」に「百万燭光の電気をつけ…昼夜の間断なく…照らす」、つまり一日中ライトアップをするなどと派手にぶち上げたのが、おそるべき波乱の幕開けでした。

2019/04/16

唇と舌をもてあそぶ愛国者(上)

国会会議録は分量が多いし、人物像や時代背景もわかりにくい。
おまけに言い回しが難解なわりに内容が乏しいなどとお考えかも知れませんが、まあ実際そんな感じです。

では無味乾燥なのかというとさにあらず。
今回は皇国史観むき出しの貴族院議員が主人公ですが、こういう堅物の口からも、突如として退屈さを吹き飛ばす名言・珍言が飛び出したりするのが議会政治の面白いところです。

そんなわけで、1929(昭和4)年1月29日、第56回帝国議会貴族院本会議における、二荒芳徳伯爵[1]の質疑を取り上げます。(当日の会議録はこちら

[1]二荒芳徳(ふたら・よしのり) 官僚、政治家。1886(明治19)年生、1967(昭和42)年没。伯爵。東京帝大卒。内務省の官僚、宮内省参事官などを経て、1925(大正14)年に貴族院議員(勅選)、以後1947年(昭和22年)まで議員に在職。ボーイスカウト日本連盟総コミッショナーなども務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

この第56議会(常会)では治安維持法改悪の緊急勅令事後承諾案が大争点となるなど、内政外交ともに激動の真っただ中。

そんなときに二荒伯爵は議会でいったい何を質問したかというと、

①日本語の正しい仮名遣いと発音について
②日本人の思想を善く導くための「善」の基準は何であるか

要するに、当時の言葉遣いや思想の乱れをひたすら憂いていらっしゃいます。

主に②の問答を追いますが、その前に①についても若干紹介しましょう。

―――――
〇伯爵二荒芳徳君 本員は文部大臣に御伺を致したいと存ずるのであります、……大正十三年十一月に臨時国語調査会と申します所の仮名遣改訂案が発表されたのであります、此改訂案は思ふに一つの研究調査の発表でありまして、之を以て我国古来の国語の用語を改訂するものとは、私は存じませぬのであります、文部当局は此改訂案を、或は教科書の改訂に用ひ、或は其他の公文に御使用になる御見込みでありますか、如何でありますか……

〇国務大臣(勝田主計[2]君) ……正に二荒伯の仰せられる通りの趣旨を以て、文部大臣はやって居りますから、是だけ御答えいたします
―――――

2019/04/10

「一億総懺悔」の真相(下)

シリーズ最終回です。

これまで見てきたように、「一億総懺悔」とは結局のところ、戦果を望む天皇の期待に応えらぬまま敗戦に至ったことを"反省"して、臣民一同が天皇にお詫び申し上げ、次こそは天皇のご意向に沿って国家再建を達成しよう!というものでした。
ここには、国民は(天皇を頂点とする)「国家」のために尽くす生き方が当然という、明治憲法的な国家観・人間観が色濃く反映しているのでしょう。

演説はこのあと、そのポツダム宣言受諾後の方針に話題が移ります。(因みに、降伏文書の調印が1945年9月2日、東久邇宮総理大臣演説は9日5日)

まずは国家再建の基本がどこにあるかという総論部分です。

―――――

 是より先、米英支三国は「ポツダム」に於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉砕の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思はせられた大御心に依り、大乗的 御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として 天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります、帝国と聯合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て聯合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります、顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、聯合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以来のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担つて、其の嚮ふべき所を誤らしめず、国体をして弥が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります(拍手)一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります
 今日に於て尚ほ現実の前に眼を覆ひ、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ(拍手)一言一行悉く 天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は 大詔の御誡めを畏み、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります(拍手)

2019/04/07

「一億総懺悔」の真相(中)

前回の続きです。

戦時中は本土防衛(本土決戦?)の責任者であったのに、一転して敗戦処理の責任者に任命されてしまった皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏。

前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し…」などと、「一億総懺悔」路線で事態を切り抜けようと画策する必死なお姿を観察してまいりました。

そうはいっても、軍や官にも反省すべきところがあると言明したわけですから、何かしらの「懺悔」があって良さそうなものです。今回はそのあたりを見ていきます。

―――――

 征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、沍寒を凌ぎ、炎熱を冒し、具さに辛苦を嘗めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて其の職務に尽瘁し、銃後国民は協心戮力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は其の総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて参りました、固より其の方法に於て過ちを犯し、適切を欠いたものも少くありませぬ、其の努力に於て悉く適当であつたとは言ひ得ざる憾みもあります、併しながら凡ゆる困苦欠乏に耐えて参りました一億国民の此の敢の意力、此の尽忠の精神こそは、仮令戦ひに敗れたりとは言へ永く記憶せらるべき民族の底力であります(拍手)

―――――

戦争の「方法に於いて過ちを犯し」という以前に、そもそも戦争の「目的」がおかしかったのではないかとか、ツッコミどころは満載ですが、ここはグッとこらえて先へ進みます。

―――――

2019/04/04

「一億総懺悔」の真相(上)

議会政治史の一愛好家が、古今の国会会議録をひたすら発掘していきます。

初回のテーマは「一億総懺悔」。 
ときは大日本帝国敗戦直後、第88回帝国議会[1]における東久邇宮稔彦総理大臣[2]の演説です。

[1]第88回帝国議会 内閣が戦争終結経緯を議会へ説明するために召集した臨時会。会期は1945(昭和20)年9月4日~5日の2日間。

[2]東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ) 軍人、政治家。1945年当時は皇族。1887年生、1990年没。第二次世界大戦中は本土防衛総司令官。1945年8月から10月まで首相として終戦処理にあたる。1947年に臣籍降下(つまり皇族ではなくなった)して以後の名は東久邇稔彦。(参考「ブリタニカ百科事典」)

演説は1945年9月5日に貴衆両院の本会議場で別々に行われましたが、内容的にはほぼ同一。ここでは衆議院版を典拠とします。(貴族院版はこちら) 

文字の色が変わっている部分が会議録からの引用、それ以外の部分(黒色の文字)は管理人のコメントです。

―――――

○議長(島田俊雄君) (前略)内閣総理大臣より発言の通告があります――内閣総理大臣稔彦王殿下
     ――――◇―――――
  〔国務大臣稔彦王殿下登壇〕

―――――


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「索引」事件簿File.5【索引編集は臨時的な仕事ではない】   シリーズ第9回 では、1960年代から国会会議録の「総索引」が編纂されるようになった(従来の「索引」からの拡充が図られた)こと、   シリーズ第10回 では、1970年代からは国会の業務にもコンピューター化の波が押...