今回は、帝国憲法改正案が審議されていた1946(昭和21)年の第90回帝国議会から、貴族院本会議における宮澤俊義[1]議員と、金森徳次郎[2]国務大臣の有名な論戦(同年8月26日)を題材とします。
(会議録はこちら)
[1]宮澤俊義(みやざわ・としよし)
憲法学者。1899(明治32)年生、1976(昭和51)年没。1923(大正12)年東大卒、1925(大正14)年同助教授、1934(昭和9)年教授として憲法講座を担当。美濃部達吉の後継者として右翼陣営の攻撃を受けつつも、合理主義的憲法理論を展開。戦後は幣原喜重郎内閣の改憲作業、また貴族院勅選議員として日本国憲法の帝国議会審議に参加。ポツダム宣言の受諾が国体の変更にあたるとする「八月革命説」を唱えて政府を追及。1959(昭和34)年東大を停年退職、以後1969(昭和44)年まで立教大学教授。(参考「世界大百科事典 第2版」)
[2]金森徳次郎(かなもり・とくじろう)
憲法学者、官僚。1886(明治19)年生、1959(昭和34)年没。1912(明治45)年東大英法科卒。法制局に入り、法制局書記官などを経て、1934(昭和9)年岡田啓介内閣の法制局長官。著書「帝国憲法要綱」(1921年=大正10年)は高等文官試験の参考書として大いに読まれたが、その天皇機関説は美濃部事件に際して攻撃され、1936(昭和11)年辞職。戦後1946(昭和21)年、第1次吉田茂内閣の国務大臣として新憲法制定に携わる。議会における憲法審議の答弁にあたり、宮澤俊義貴族院議員の「八月革命説」と対立した。1948(昭和23)年~1959(昭和34)年にかけて国立国会図書館の初代館長。(参考「世界大百科事典 第2版」「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
経歴からわかるように、憲法学の専門家同士が天皇制や国民主権について議場で論争した、極めて貴重な記録です。
(とはいえ、金森国務大臣は政府代表の立場なので、答弁内容がすべて金森氏個人の見解であったかは検証が必要か)
宮澤議員の主張は、要約すると次の7点。
1、ポツダム宣言受諾は、国民主権主義の承認を意味する
2、国民主権主義は、終戦までの憲法の根本とは原理的に異なるものである
3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ
4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である
5、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、従来の国法上は「国体の変革」にあたる
6、国民主権主義の採用を内容とする憲法改正は、明治憲法第七十三条の手続きに依っていると同時に、それを超えて行われるものである
7、明治憲法第七十三条の憲法改正手続きに依ることは、新憲法が民定憲法であるとの建前と矛盾があるのではないか
後で見るように、新憲法下における「主権」の所在や国家の統治形態について、政府側は曖昧な態度をとっていました。
宮澤氏としては、憲法の専門家として事態を看過できないと考えたのでしょう。
本会議なので、まず宮澤議員が質問をまとめて行い、それに金森国務大臣がまとめて答えていますが、ここでは便宜上、論点ごとに質問と答弁を対比していきます。
〇導入部
宮澤議員は、審議中の憲法改正案について、不完全さはあるとしつつも、日本の民主化へ向けた「重要なる一歩前進」と評価し、改正案の成立を希望するとの基本姿勢を表明。
そのうえで、「原理的な問題の若干」について「箇条的に」質問すると切り出しています。
―――――
〇議長(公爵徳川家正君) 宮澤俊義君―――――
〔宮澤俊義君登壇〕
〇宮澤俊義君 只今の憲法改正が、果して日本の政治の民主化に役立つかどうかと云ふ点に付ては、色々意見がございますが、私は先程からの澤田議員が仰しやつた所とは違ひ、寧ろ大体に於て只今板倉議員が仰しやつた所と同様に、是は日本の政治の民主化の道に於ける重要なる一歩前進であると考へて居ります、併し其の憲法が非常に完全なるものだと考へるのではありませぬ、そこには不明瞭な規定や不適当な規定が尠からず存するのでありまして、それ等が然るべく修正せられることを希望する者でありますが、それにも拘らず、全体として此の改正案が成立することを心から祈つて居ります、さう云ふ立場から、此の憲法改正案に関する原理的な問題の若干に付て、極めて簡単に箇条的に御尋ね申上げたいと思ひます、
対する金森大臣は答弁の冒頭で、「非常に困難な法理上の論点」に十分答えるのは容易ではないと断りつつ、「できるだけ簡単に私の所信を申し上げたい」と表明しています。
―――――
〔国務大臣金森徳次郎君登壇〕―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) 宮沢君から相牽連して一貫して居りまする七つの御質問を提議になりました、それは一貫して居ると云ふ外に非常に困難な法理上の論点を含んで居りまする訳で、此の際御得心の行きまする程度に説明し得るや否や、或はより多くの時間を戴かなければ、詰り此の場所に不適当なる程度の詳しさを以て申上げなければ十分の御了解を得ないのではないかと云ふ虞れをも持つて居ります、併しながら出来るだけ簡単に私の所信を申上げたいと思つて居るのであります、
1、ポツダム宣言受諾は、国民主権主義の承認を意味する
宮澤議員は、日本政府が受諾したポツダム宣言の中から、
『十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ』とあるのを引用。
「国家の統治形態」が国民の意思で決定される体制とは、すなわち「国民主権」にほかならないと説きます。
―――――
〇宮澤俊義君 ……質疑の第一点は、「ポツダム」宣言の受諾と云ふことは、国民主権主義の承認を意味すると思ふが、どうであらうかと云ふことであります、「ポツダム」宣言の第一条、十二項には御承知の通り、日本国国民の自由に表明せられた意思に従つて、平和的傾向を有し云々、と云ふ言葉がございます、更に昨年八月十一日の我が国の降伏申入に対する聯合国の回答には、最終的な日本の統治の形態は、「ポツダム」宣言に従つて日本国国民の自由に表明した意思に依つて決定さるべきものである、と言はれて居ります、国家の統治形態が、其の国民の自由に表明せられた意思に依つて決定さるべきものであるとする建前は、即ち所謂国民主権主義に外ならないのであります、従つて「ポツダム」宣言の受諾と云ふことは、国民主権主義の承認と云ふことを意味するのであると思ふのでありますが、如何でありませうか、之が第一点であります、―――――
一方、金森大臣の回答は要旨、国民の自由意思に基づいて国家の基本組織を決めるのだが、その結果として主権がどうなるかはまた別の話しなのだと主張しました。
―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) ……第一の御質疑は「ポツダム」宣言の受諾は国民主権主義の承認を意味すると信ずるが、如何か、斯う云ふ趣旨であるのであります、此の御質問は之を肯定したる形に於て正しいかも知れませぬ、併し私未だ左様なる論結を得て居りませぬ、「ポツダム」宣言の要求致します所は、日本が将来採るべき政治の基本形式は、国民の自由なる意思に依つて決定すべしと云ふことを要求して居るに止まるのでありまして、是は或意味に於て国民主権と云ふことにもなりませう、併しながら当然に国民主権と云ふことになるとの論結は得ませぬ、我々は「ポツダム」宣言の趣旨に基いて国民の自由なる意思に依つて国家の基本組織を決定すれば宜いのでありまして、主権が何処に在るかと云ふ問題は別の問題になるやうに考へて居ります、(拍手)―――――
思い出されるのは、この宮澤対金森の論戦から約1年前の1945(昭和20)年9月、敗戦直後の帝国議会で、当時の東久邇宮首相が、
『「ポツダム」宣言は原則として 天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し』などと演説していたこと。
(詳しくは、「一億総懺悔」の真相(下)を参照)
政府としては、終戦工作にあたっても「国体護持」つまり天皇の統治権を温存すべく画策してきた手前、いまさら「ポツダム宣言を受諾したのでこれからは国民主権で行きます」とは言いたくなかったのでしょう。
2、国民主権主義は、終戦までの憲法の根本とは原理的に異なるものである
従来の「国体」観念によれば、明治憲法下の天皇制は、国民の意思によってではなく、あくまで「神勅」(神の意思)によって決定されたものという建前でした。
(これと、結果的に天皇制支持の国民が多かったか少なかったかは、それぞれ全く別の事柄)
ところが政府は、あたかも「我が国が終戦以前から国民主権主義」であったかのような言説を振りまいている。これはいくらなんでも無理筋だ。
だいたいそんなことを言い出したら、「君主主権主義」か「国民主権主義」かの原理的な区別も、新憲法で「国民主権」を謳うことも、まったくの無意味になってしまう。
これから新憲法のもとで民主政治を行おうというときに、政治体制の根本変革への国民の正しい認識を妨げてどうするのか!
――と、宮澤教授は嘆いていらっしゃいます。
―――――
〇宮澤俊義君 ……次に第二点、此の国民主権主義は終戦迄の我が憲法の根本建前と原理的に異るものであると思ふが、どうかと云ふ点であります、終戦以前の我が憲法の根本建前は、我が国の統治の形態が所謂天壌無窮の神勅に依つて、即ち神の意思に依つて決定されると云ふ建前であつたと思ひます、神勅に依つて、それに基き万世一系の皇統に出でさせ給ふ天皇が現人神として日本に君臨し給ふと云ふのが、其の根本の建前であつたと思ひます、此の建前をどう云ふ名前で呼ぶかは問題でありますが、それは兎も角と致しまして、此の建前は、天皇が国民の意思に基いて君臨し給ふと云ふものでなかつたと云ふことは明白であらうと思ひます、従つてそれは国民主権主義とは原理的に全く異るものであつた、異る建前であつたと云ふことは疑ないと思ひます、勿論此の建前に基く統治形態、即ち天皇統治制は多くの場合国民の支持を得て居たことでありますし、又御歴代の天皇は常に国民の意思を何よりも尊重し給ふたことでありますが、併しそれにも拘らず、そこでは国家の統治の形態が飽く迄神意に基くものとせられたのであります、少くとも国家の統治の形態の根拠は決して国民の意思に存するとはせられなかつたのであります、政府は我が国が終戦以前から国民主権主義を其の根本建前として居ると云ふ風に説いて居られるやうでありますが、それは理論的に言つて何としても無理ではないかと思ひます、皇祖皇宗の遺訓を明徴にする為に制度せられ、皇祖皇宗の後裔に遺し給へる統治の洪範を紹述したものと言はれて居ります、明治憲法の何処に国民主権主義を見出すことが出来るでありませうか、若し之をしも国民主権主義と言ふならば、どのやうな国家も苟くもそれが多少でも断続的生命を有する限り、総て国民主権主義であると言はなくてはならなくなりますし、それでは君主主権主義と国民主権主義との原理的な区別は全く意味を失つてしまふ、其の結果として此の憲法改正案が、国民主権主義を唱へること自体が、全く無意味になつてしまふのであります、我が国が終戦以前から国民主権主義を認めて居たと説くことは、斯様に理論的に見て誤であると思ひますが、或は実際政治的見地から見ては、さう説くことが何等かの効用を持つと云ふ考もあるかも知れませぬ、併し日本の政治が茲に建国以来の生れ変りを断行しようと云ふ時に、其の根本建前が以前と少しも変らないと説くことこそ、現在日本が行ひつつある根本的な変革に対する正しい認識を妨げることになり、真の民主政治の実行と云ふ目的から見て、実際的に却て不適当ではないかと考へるのでありますが、如何がでありませうか、―――――
これへの金森大臣の回答が、素人的には大変にわかりにくい。
大雑把に要約すると、
(1)ポツダム宣言の受諾によって「物権的に」いきなり国民主権に変わったのではなく、憲法の制定を経過して国民主権に変わるべき明らかな情勢にあるという意味で「債務的」なものである
(2)変わるのは国家体制(「国家の意思を決定する強い力」)の「実体」ではなく、それへの「認識」の変化だ
というのです。
因みに、宮澤氏の前の質疑者であった板倉議員との問答で、金森氏はこれを天動説と地動説の関係にたとえて、どちらにしても結局は同一のものを指している、変わったのは実体ではなく認識なのだという議論を展開しています。
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〇国務大臣(金森徳次郎君) ……次に第二に国民主権主義は昨年八月以前の我が憲法の根本的建前と原理的に異るものであると信ずるがどうかと云ふ御質疑でありました、此の意味は恐らく宮沢君の御考になるのも私の考へるのも同じであらうと思ひますが、国家の意思を決定致しまする強い力は八月十五日前後に於て変つたかどうか、斯う云ふのであります、それは表面的に見まして明かに変るべき情勢にあります、情勢にあると申しますのは、八月十五日に変るべき情勢でない、是が憲法の制定を経過して変るべき情勢にある、詰り債務的でありまして、物権的でありませぬ、さう云ふ状況にあると一応考へるのであります、併し曩にも申しましたやうに、曩に板倉君の御質疑の場合に申しましたやうに、果して変つたのであるかどうか、変つたのは認識の変化であつて、実体の変化でないのではないか、私は認識の変化であらう、実体の変化でないと、斯んな風に考へて居ります、―――――
この論を極端に推し進めると、ある国家の主権がいずれに帰属するかは、憲法の規定とはあまり関係がなく、人びとの(もっと言えば、そのときどきに君臨する権力者の)マインド次第で決まるということになってしまいそうです。
いずれにしても、当時の日本の支配層が、国民主権の原理が徹底されることをどれほど警戒していたかがうかがい知れるエピソードではあります。
(次回に続く)