2019/04/22

唇と舌をもてあそぶ愛国者(補遺)

前回まで取り上げた、1929(昭和4)年の貴族院議員・二荒芳徳氏の質問に関する補遺ないし重箱の隅を若干。


①二荒芳徳氏は声が大きな人物だった?

本会議では登壇して質問をするのが通例。
ところがこのときの二荒氏の質問の冒頭部分を見ると、

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〇副議長(侯爵蜂須賀正韶[1]君) 二荒伯爵の御登壇を望みます

〇伯爵二荒芳徳君 本員の質問は頗る簡単でありますから、自席から御許しを願ひたうございます

〇副議長(侯爵蜂須賀正韶君) 宜しうございます
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[1]蜂須賀正韶(はちすか・まさあき) 政治家。侯爵。1871(明治4)年生、1932(昭和7)年没。1924(大正13)年~1930(昭和5)年貴族院副議長を務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

演壇ではなく、議員席からの発言を許されています。
また、首相答弁に対して二荒議員が再質問を求めた際、今度は議長との間でこんなやり取りも。

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〇伯爵二荒芳徳君 座席から質問いたしたいと存じます

〇議長(公爵徳川家達[2]君) 二荒伯爵の大きな御声なら宜しからうと考えます
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2019/04/19

唇と舌をもてあそぶ愛国者(下)

前回の続きです。

ここまで道徳的義憤をぶちまけてきた貴族院議員・二荒芳徳氏。
とはいえ議場で抽象論を振りかざすだけではまずいと思ったらしく、
又思想の善導に、或は国粋を唱へ、或は愛国を唱へますけれども、其焦点にして真に我々昭和時代人の悩みを理解しない所の主義主張を云ふようなものは、果たして是れ真の愛国であり、国粋でありませうか 
との前置きのもとに披露したのが、こんなエピソード。

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〇伯爵二荒芳徳君 ……私は昨秋京都に参りまして斯かる事例を聞いたのであります、……京都と滋賀の境に四明岳と云ふ比叡の一峰があるのであります、此四明岳に明治天皇の御聖徳標を建てやうという企があるのであります、而して此会の会員には皆著名な、殊に私共の尊敬する人々が入って居られるのでありますが、其四明岳の頌徳表の頂きには百万燭光の電気をつけまして、昼夜間断なく八洲を照らすと云ふ計画であるさうであります
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どうやら明治天皇の徳をたたえる記念碑か何かを建てようという計画らしい。
ここまでは特別な意外性はありません。

ただ、その「御聖徳(頌徳?)標」に「百万燭光の電気をつけ…昼夜の間断なく…照らす」、つまり一日中ライトアップをするなどと派手にぶち上げたのが、おそるべき波乱の幕開けでした。

2019/04/16

唇と舌をもてあそぶ愛国者(上)

国会会議録は分量が多いし、人物像や時代背景もわかりにくい。
おまけに言い回しが難解なわりに内容が乏しいなどとお考えかも知れませんが、まあ実際そんな感じです。

では無味乾燥なのかというとさにあらず。
今回は皇国史観むき出しの貴族院議員が主人公ですが、こういう堅物の口からも、突如として退屈さを吹き飛ばす名言・珍言が飛び出したりするのが議会政治の面白いところです。

そんなわけで、1929(昭和4)年1月29日、第56回帝国議会貴族院本会議における、二荒芳徳伯爵[1]の質疑を取り上げます。(当日の会議録はこちら

[1]二荒芳徳(ふたら・よしのり) 官僚、政治家。1886(明治19)年生、1967(昭和42)年没。伯爵。東京帝大卒。内務省の官僚、宮内省参事官などを経て、1925(大正14)年に貴族院議員(勅選)、以後1947年(昭和22年)まで議員に在職。ボーイスカウト日本連盟総コミッショナーなども務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

この第56議会(常会)では治安維持法改悪の緊急勅令事後承諾案が大争点となるなど、内政外交ともに激動の真っただ中。

そんなときに二荒伯爵は議会でいったい何を質問したかというと、

①日本語の正しい仮名遣いと発音について
②日本人の思想を善く導くための「善」の基準は何であるか

要するに、当時の言葉遣いや思想の乱れをひたすら憂いていらっしゃいます。

主に②の問答を追いますが、その前に①についても若干紹介しましょう。

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〇伯爵二荒芳徳君 本員は文部大臣に御伺を致したいと存ずるのであります、……大正十三年十一月に臨時国語調査会と申します所の仮名遣改訂案が発表されたのであります、此改訂案は思ふに一つの研究調査の発表でありまして、之を以て我国古来の国語の用語を改訂するものとは、私は存じませぬのであります、文部当局は此改訂案を、或は教科書の改訂に用ひ、或は其他の公文に御使用になる御見込みでありますか、如何でありますか……

〇国務大臣(勝田主計[2]君) ……正に二荒伯の仰せられる通りの趣旨を以て、文部大臣はやって居りますから、是だけ御答えいたします
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2019/04/10

「一億総懺悔」の真相(下)

シリーズ最終回です。

これまで見てきたように、「一億総懺悔」とは結局のところ、戦果を望む天皇の期待に応えらぬまま敗戦に至ったことを"反省"して、臣民一同が天皇にお詫び申し上げ、次こそは天皇のご意向に沿って国家再建を達成しよう!というものでした。
ここには、国民は(天皇を頂点とする)「国家」のために尽くす生き方が当然という、明治憲法的な国家観・人間観が色濃く反映しているのでしょう。

演説はこのあと、そのポツダム宣言受諾後の方針に話題が移ります。(因みに、降伏文書の調印が1945年9月2日、東久邇宮総理大臣演説は9日5日)

まずは国家再建の基本がどこにあるかという総論部分です。

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 是より先、米英支三国は「ポツダム」に於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉砕の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思はせられた大御心に依り、大乗的 御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として 天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります、帝国と聯合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て聯合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります、顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、聯合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以来のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担つて、其の嚮ふべき所を誤らしめず、国体をして弥が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります(拍手)一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります
 今日に於て尚ほ現実の前に眼を覆ひ、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ(拍手)一言一行悉く 天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は 大詔の御誡めを畏み、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります(拍手)

2019/04/07

「一億総懺悔」の真相(中)

前回の続きです。

戦時中は本土防衛(本土決戦?)の責任者であったのに、一転して敗戦処理の責任者に任命されてしまった皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏。

前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し…」などと、「一億総懺悔」路線で事態を切り抜けようと画策する必死なお姿を観察してまいりました。

そうはいっても、軍や官にも反省すべきところがあると言明したわけですから、何かしらの「懺悔」があって良さそうなものです。今回はそのあたりを見ていきます。

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 征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、沍寒を凌ぎ、炎熱を冒し、具さに辛苦を嘗めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて其の職務に尽瘁し、銃後国民は協心戮力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は其の総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて参りました、固より其の方法に於て過ちを犯し、適切を欠いたものも少くありませぬ、其の努力に於て悉く適当であつたとは言ひ得ざる憾みもあります、併しながら凡ゆる困苦欠乏に耐えて参りました一億国民の此の敢の意力、此の尽忠の精神こそは、仮令戦ひに敗れたりとは言へ永く記憶せらるべき民族の底力であります(拍手)

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戦争の「方法に於いて過ちを犯し」という以前に、そもそも戦争の「目的」がおかしかったのではないかとか、ツッコミどころは満載ですが、ここはグッとこらえて先へ進みます。

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2019/04/04

「一億総懺悔」の真相(上)

議会政治史の一愛好家が、古今の国会会議録をひたすら発掘していきます。

初回のテーマは「一億総懺悔」。 
ときは大日本帝国敗戦直後、第88回帝国議会[1]における東久邇宮稔彦総理大臣[2]の演説です。

[1]第88回帝国議会 内閣が戦争終結経緯を議会へ説明するために召集した臨時会。会期は1945(昭和20)年9月4日~5日の2日間。

[2]東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ) 軍人、政治家。1945年当時は皇族。1887年生、1990年没。第二次世界大戦中は本土防衛総司令官。1945年8月から10月まで首相として終戦処理にあたる。1947年に臣籍降下(つまり皇族ではなくなった)して以後の名は東久邇稔彦。(参考「ブリタニカ百科事典」)

演説は1945年9月5日に貴衆両院の本会議場で別々に行われましたが、内容的にはほぼ同一。ここでは衆議院版を典拠とします。(貴族院版はこちら) 

文字の色が変わっている部分が会議録からの引用、それ以外の部分(黒色の文字)は管理人のコメントです。

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○議長(島田俊雄君) (前略)内閣総理大臣より発言の通告があります――内閣総理大臣稔彦王殿下
     ――――◇―――――
  〔国務大臣稔彦王殿下登壇〕

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「索引」事件簿File.5【索引編集は臨時的な仕事ではない】 #国会会議録の使われ方 その11

「索引」事件簿File.5【索引編集は臨時的な仕事ではない】   シリーズ第9回 では、1960年代から国会会議録の「総索引」が編纂されるようになった(従来の「索引」からの拡充が図られた)こと、   シリーズ第10回 では、1970年代からは国会の業務にもコンピューター化の波が押...