2019/07/07

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その3)

前回の続きです。

宮澤議員はここまで(1~4問目)の質疑で、今後の日本の国家制度が天皇(君主)主権から国民主権へと大転換することを、ポツダム宣言や憲法改正案(現在の日本国憲法)の条文に即して確認してきました。

今回見る第5問目では、新憲法によって採用される「国民主権主義」は、戦前の法体系の下にあっては断じて許されざるものとされた「国体の変革」に当たるものだとの論点が提起されます。


5、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、従来の国法上は「国体の変革」にあたる

ところでこの「国体」という語は、論者によって定義がまちまちなまま用いられていました。

宮澤氏はその混迷を一掃すべく、
問題と私が致しますのは、……従来……国法上、国体とせられて来たものが変つたかどうかと云ふこと
だと論点を整理するところから始めます。

―――――
〇宮澤俊義君 ……次に第五点であります、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、国体にどう云ふ影響を与へるかと云ふことであります、此の点は只今板倉議員から詳細に御尋がありましたが、私も稍稍違つた角度から簡単に御伺ひしたいと思ひます、国民主権主義を核心とする新憲法が国体にどう云ふ影響を及したかと云ふことは、衆議院で多いに論議せられた所であります、金森国務大臣は、只今此の壇で仰しやつたやうな意味に国体と云ふ言葉を理解せられ、其の意味の国体は此の憲法改正に依つて少しも変つて居ないと説明して居られます、此の説明は、先程の板倉議員の御言葉通りに私も賛成致します、併し此処で問題と私が致しますのは、さう云ふ意味の国体でなくして、従来私が国法上、国体とせられて来たものが変つたかどうかと云ふことであります、国体と云ふ言葉が学者に依つてどう用ひられて来たか、或はそれは正しくは寧ろ政体として呼ばるべきではなかつたかと云ふやうな問題は暫く別と致します、茲では成文法に依り、或は政府に依り、公式に、公に用ひられた国体の概念を問題と致します、
―――――

続いて宮澤議員は、「国体の変革」を処罰した悪名高い「治安維持法」の条文解釈を援用。
従来の「国体」とは、すなわち
万世一系の天皇が君臨し、統治権を総攬
する体制のこと。
これが新憲法の国民主権主義の承認によって影響を受けるのか否かが肝心なのだと、ことの核心を直撃します。

―――――
〇宮澤俊義君 ……国体と云ふ言葉が成文法に現れましたのは、恐らく治安維持法が最初でありませう、処で治安維持法に所謂国体とは何を意味するかに付て、丁度今朝程の朝日新聞に出て居りましたやうに、大審院は斯う説明して居ります、「我が帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総攬し給ふことを以て其の国体となし、治安維持法の所謂国体の意味も亦斯くの如く解すべきものとす」さうして此の解釈は恐らく我が成文法上の国体概念の説明として多くの人の賛成する所であらうと思ひます、尤も大審院の判例の中にも多少是と違つたのもございまして、例へば朝鮮の独立運動などを致しましたことを以て、治安維持法第一条の国体の変革に該当すると云ふことを引用した、解釈と判例もあります、さうして有力な学説として之を支持する者もありますが、是は恐らく多数の人の賛成は得て居ないと思ひますから、別と致しまして、只今言ひましたやうな国体、金森国務大臣の仰しやるやうな国体ではなくて、従来我が国が治安維持法に依つて、其の変革を厳禁しようとした所の国体、即ち万世一系の天皇が君臨し、統治権を総攬し給ふとする原理は、国民主権主義を核心とする新憲法に依つて、果してどう云ふ影響を受けるでありませうか、是が問題であります、
―――――

さらに宮澤氏は、これまでの政府答弁を検討。

政府は言葉の上では新憲法によって国体が変革されることをかたくなに否定した一方で、天皇が「統治権の総攬者」の地位を失うことは認めていました。
このように天皇の地位が変わることは、国法上の意味での「国体の変革」に当たることは明らかではないかと問いかけます。

―――――
〇宮澤俊義君 ……金森国務大臣は新憲法の下では、天皇は統治権の総攬者たる地位は持つて居られないと言つて居られます、従つて私が此処で申すやうな意味の国体は、新憲法に依つて変つて居ると云ふことを、承認していらつしやることと思ひます、(拍手)衆議院での金森大臣の御答弁の中でも、勿論国体が変つたと云ふ御言葉はありませぬが、さう云ふ趣旨は明瞭に読み取ることが出来ると思ふのでありますが、どうでありませうか、
―――――

ところで、なぜ日本政府はここまで頑迷に新憲法による「国体の変革」を認めたがらないのか?

その背景には、政府が「ポツダム宣言」受諾に際し、あくまで「国体護持」に執念を燃やしていたという事情がありました。

しかし、「ポツダム宣言」受諾時にどのような経緯があったにせよ、新憲法で国民主権主義の採用する以上は、
少くとも天皇の統治の総攬者たる地位を廃止した、新憲法の下に於ては、さう云ふ意味の国体は決して健在ではあり得ない
のです。

―――――
〇宮澤俊義君 ……是は終戦当時、所謂国体の護持が問題とせられました昨年の八月十日、下村情報局総裁が、政府は国体の護持と民族の名誉の為に、最善の努力をしつつあると云ふ、あの悲痛な声明を発しましたことは、尚私共の記憶に新たな所であります、其の同じ日に、我が政府は「ポツダム」宣言が、主権的な統治者としての天皇の大権を害するやうな要求を包含して居ないとの了解の下に之を受諾する用意がある、と云ふことを聯合国に申入れました、茲に主権的な統治者としての、「ソヴリン・ルーラー」としての、天皇の「プリロガティヴ」と云ふ表現は、頗る明確を欠くのでありますが、其の前後の事情の下に之を解すれば、それが当時護持を叫ばれて居た所の、国体を意味することは明瞭である、而も其処に所謂国体は、決して金森国務大臣の言はれるやうな国体ではなくして、寧ろそれ迄国法上用ひられて居た意味の国体、即ち治安維持法で其の護持を保障した所の国体と、略略同じ意味であつたと思ひます、果してさうであるとすれば、日本の最終の統治形態が、自由に表明せられた人民の意思に依つて決定されるとする原理を承認し、国民主権主義を採用することは、理論的に見て、其の意味の国体に根本的な変革を与へることと言はなくてはならぬと思ひますが、如何でございませうか、八月十四日の終戦の詔書には、「国体を護持し得て」と云ふ御言葉が拝されるのでございますが、主権的統治者としての「ソヴリン・ルーラー」としての、天皇の「プリロガティヴ」は、無条件降伏に依つて、重大な侵害を加へられたのではないでありませうか、少くとも天皇の統治の総攬者たる地位を廃止した、新憲法の下に於ては、さう云ふ意味の国体は決して健在ではあり得ないのではないでせうか、
―――――

宮澤議員が、この第5問目の締めくくりにあたって強調するのは、"天皇の地位が変わるなんてショックだ"という議論への痛烈なお説教です。
曰く、このような感情論に引きずられて、日本の民主化という大変革を不徹底に終わらせてはならない。
センチメンタリズムを捨てて、冷たい真実に直面せよ!
というわけ。

―――――
〇宮澤俊義君 ……此の点に関聯して、国体の変革を承認することは、日本民族又は日本国家の同一性を否定する、と云ふやうな見解があるやうでありますが、是は不当であると思ひます、治安維持法に所謂国体が変つたとしましても、又終戦当時護持を叫ばれた国体が変つたとしましても、日本民族は依然として日本民族であり、日本国家は依然として日本国家であります、民族としての同一性、国家としての継続性は、それに依つて少しも傷つけられることはないのであります、(拍手)国体が護持され得なかつた、国体が変更されたと云ふことを正面から承認することは、多くの国民の感情に多大の「シヨック」を与へるかも知れませぬ、其の意味に於て、政府がそれを正面から承認することを避けようとする御気持は、十二分に了解されるのでありますが、日本の政治の民主化と云ふ大変革を、国民全部の心の中に徹底させる為には、さうして先程板倉議員の御使になつた言葉でありますが、「センチメンタリズム」を捨てて、冷たい真実に直面することが必要ではないでせうか(拍手)、
――――― 

さて、この第5問目への政府答弁を確認致しましょう。

例によって金森大臣は、国民主権主義について、
過去に於ては潜在的にさうであつた、将来に於ては現在的に、顕在的に、顕はれたる姿に於てさうであると云ふだけでありまして、本質的に変化はないもの
などと、表面上は逃げているような印象を受けます。

但し、さすがは憲法学の専門家というべきでしょうか、
今回の憲法の改正に依つて、所謂治安維持法等に解釈せられて居つた国体は変つたかどうか、……其の意味に於きましては国体は変つたと御返事して宜いと思ふ
と、一番肝心なポイントについては、宮澤議員の指摘を正面から受け止め、大変重要な答弁をしています。

議員の質問に政府答弁が全くかみ合わないという、現在の安倍政権下の国会論戦とは大違いのレベルの高さですねー。

―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) ……次に第五の点と致しまして、国民主権主義の採用は国体にどう云ふ変化を与へたか、其の点は国民主権主義の採用から国体にどう云ふ変化を与へたか斯う云ふ風に仰せられますると、稍稍御答に苦しむ次第でありまして、私共の認識は主権が国民に在ると云ふことは、過去に於ては潜在的にさうであつた、将来に於ては現在的に、顕在的に、顕はれたる姿に於てさうであると云ふだけでありまして、本質的に変化はないもののやうに思つて居ります、従つて之に対しましての御答は申上兼ねまするが、多分御趣旨の次第は、今回の憲法の改正に依つて、所謂治安維持法等に解釈せられて居つた国体は変つたかどうか、斯う云ふ御質疑であらうと存じます、其の意味に於きましては国体は変つたと御返事して宜いと思ふのであります、
―――――

(続く)

2019/06/15

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その2)

前回の続き。

明治憲法の「君主主権主義」と、新憲法下の「国民主権主義」との区別を曖昧にしかねない答弁を繰り返した当時の日本政府。

宮澤俊義議員は、
(明治憲法を)国民主権主義と言ふならば、どのやうな国家も苟くもそれが多少でも断続的生命を有する限り、総て国民主権主義であると言はなくてはならなくなりますし、それでは君主主権主義と国民主権主義との原理的な区別は全く意味を失つてしまふ
、政府の態度を厳しく批判していました

なお、前回見た部分は「ポツダム宣言」受諾と主権の所在の関係が主論点でした。
対してここから先の何問かは、1946年当時審議中の憲法改正案の規定に焦点が移っていきます。


3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

宮澤氏はここで、憲法改正案の条文を見れば国民主権主義が採用されていることは明白であると思うがどうかと、基本点の確認を行っています。

―――――
〇宮澤俊義君 ……次に第三点、新憲法草案は右に述べたやうな国民主権主義を採用して居ると思ふがどうかと云ふ点であります、是は憲法の前文、其の他から言つて極めて明瞭であると思ふのであります、前文及び第一条の字句に付て衆議院で多少の修正が行はれました、私は此の修正が絶対に必要なものであつたとは必ずしも考へないのでありますが、唯一部には政府原案のやうな表現は必ずしも単純な国民主権主義を意味せず、多かれ、少なかれ、それとは違つたものを意味すると云ふ見解が行はれ、現に此の憲法改正案の定める国民主権主義は君民共治主義であるとか、更にそれは必ずしも天皇主権主義と根本的に違ふものでないと云ふやうな見解迄認められた位であります以上、さう云ふ誤解乃至は曲解の生ずる余地を防ぐ為には、此の修正は適当であつたと言へようと思ひます、併し何れにせよ、憲法改正案が国民主権主義を採用して居ることは、此の修正の有無に拘らず明白であり、又それは「ポツダム」宣言受諾に依つて最終的統治形態が、自由に表明せられた人民の意思に依つて定まるとする原理を承認した日本の憲法改正案としては、当然の態度であると思ふのでありますが、如何がでありませうか、
―――――

なお、宮澤氏が言及している政府原案と衆議院修正についても簡単に。

天皇(明治憲法ではこちらが主権者だった)の地位と、国民(新しく主権者になったのがこちら)の関係性を規定した、極めて重要な条文が第一条です。

ところが政府が帝国議会に提出した改正原案では、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く
という表現ぶりになっていて、これでは新憲法下での主権の所在が不明確だと批判が噴出。
そこで衆議院の審議で修正され、
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く
という現行の条文に落ち着いたという経過があったのでした。

「新憲法は国民主権主義だ」というシンプルなこの問いには、さすがの金森大臣も難解な論理を繰り出す余地はなく、ほぼ素直に事実関係を認める答弁をしています。

―――――
〇国務大臣(金森徳次郎君) ……第三に憲法改正案は国民主権主義を採用して居ると信するが如何か、是は御説の通りであります、国家の意思の源泉は国民の全体に在ると云ふ原理を採る、其の原理に基いて政府原案も、又衆議院の修正に依りまする文章も記述せられて居る訳であります、
―――――



4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

2019/05/06

憲法の基礎知識~君主主権から国民主権へ【宮澤俊義 vs. 金森徳次郎】(その1)

天皇の代替わり、平成から令和への改元と、天皇制が何かと話題のいまだからこそ、天皇と国民の関係性が明治憲法下と日本国憲法下ではどう変わったのか、きちんと認識を持っておきたいところです。

今回は、帝国憲法改正案が審議されていた1946(昭和21)年の第90回帝国議会から、貴族院本会議における宮澤俊義[1]議員と、金森徳次郎[2]国務大臣の有名な論戦(同年8月26日)を題材とします。
会議録はこちら

[1]宮澤俊義(みやざわ・としよし)
憲法学者。1899(明治32)年生、1976(昭和51)年没。1923(大正12)年東大卒、1925(大正14)年同助教授、1934(昭和9)年教授として憲法講座を担当。美濃部達吉の後継者として右翼陣営の攻撃を受けつつも、合理主義的憲法理論を展開。戦後は幣原喜重郎内閣の改憲作業、また貴族院勅選議員として日本国憲法の帝国議会審議に参加。ポツダム宣言の受諾が国体の変更にあたるとする「八月革命説」を唱えて政府を追及。1959(昭和34)年東大を停年退職、以後1969(昭和44)年まで立教大学教授。(参考「世界大百科事典 第2版」)

[2]金森徳次郎(かなもり・とくじろう)
憲法学者、官僚。1886(明治19)年生、1959(昭和34)年没。1912(明治45)年東大英法科卒。法制局に入り、法制局書記官などを経て、1934(昭和9)年岡田啓介内閣の法制局長官。著書「帝国憲法要綱」(1921年=大正10年)は高等文官試験の参考書として大いに読まれたが、その天皇機関説は美濃部事件に際して攻撃され、1936(昭和11)年辞職。戦後1946(昭和21)年、第1次吉田茂内閣の国務大臣として新憲法制定に携わる。議会における憲法審議の答弁にあたり、宮澤俊義貴族院議員の「八月革命説」と対立した。1948(昭和23)年~1959(昭和34)年にかけて国立国会図書館の初代館長。(参考「世界大百科事典 第2版」「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

経歴からわかるように、憲法学の専門家同士が天皇制や国民主権について議場で論争した、極めて貴重な記録です。
(とはいえ、金森国務大臣は政府代表の立場なので、答弁内容がすべて金森氏個人の見解であったかは検証が必要か) 
 
宮澤議員の主張は、要約すると次の7点。

1、ポツダム宣言受諾は、国民主権主義の承認を意味する

2、国民主権主義は、終戦までの憲法の根本とは原理的に異なるものである 

3、新憲法草案は国民主権主義を採用しているはずだ

4、主権者たる国民の中に天皇が含まれるとの説明は不適当である

5、国民主権主義の承認を核心とする新憲法は、従来の国法上は「国体の変革」にあたる

6、国民主権主義の採用を内容とする憲法改正は、明治憲法第七十三条の手続きに依っていると同時に、それを超えて行われるものである

7、明治憲法第七十三条の憲法改正手続きに依ることは、新憲法が民定憲法であるとの建前と矛盾があるのではないか

後で見るように、新憲法下における「主権」の所在や国家の統治形態について、政府側は曖昧な態度をとっていました。
宮澤氏としては、憲法の専門家として事態を看過できないと考えたのでしょう。

本会議なので、まず宮澤議員が質問をまとめて行い、それに金森国務大臣がまとめて答えていますが、ここでは便宜上、論点ごとに質問と答弁を対比していきます。
 
 

〇導入部

宮澤議員は、審議中の憲法改正案について、不完全さはあるとしつつも、日本の民主化へ向けた「重要なる一歩前進」と評価し、改正案の成立を希望するとの基本姿勢を表明。
そのうえで、「原理的な問題の若干」について「箇条的に」質問すると切り出しています。 

―――――
〇議長(公爵徳川家正君) 宮澤俊義君
  〔宮澤俊義君登壇〕

2019/05/01

権力闘争今昔物語~菅義偉 vs. 創価学会・公明党の巻~

今は昔の物語。

主役はおなじみの菅義偉氏です。
いまでこそ自公連立による安倍政権の中心人物ですが、実はかつての彼は公明党・創価学会と激しく抗争していました。

その何よりの証拠が1997(平成9)年5月27日の衆議院決算委員会第二分科会の質疑。(会議録はこちら

まずこの日の決算委分科会の出席メンバーを見てみると。

―――――
平成九年五月二十七日(火曜日)
    午前九時開議
 出席分科員
   主 査 根本  匠君
      安倍 晋三君    奥山 茂彦君
      田邉 國男君    滝   実君
      石垣 一夫君    松浪健四郎君
      正森 成二君
   兼務 熊谷 市雄君 兼務 菅  義偉君
   兼務 山口 泰明君 兼務 玄葉光一郎君
 出席国務大臣
        文 部 大 臣 小杉  隆君
―――――

当時の根本主査は現在の厚生労働大臣、加えて安倍分科員(現総理大臣)、兼務で菅分科員(現官房長官)と、現在の第四次安倍改造内閣の閣僚が3人もいるという、かなり驚きの顔ぶれです。
(因みに、安倍氏はまさにこの日の分科会で、学校歴史教科書を攻撃する有名な質疑を行った)

ほかにも、松浪健四郎氏、正森成二氏、玄葉光一郎氏など与野党のビッグネームが並んでおります。

なお、1997年当時は橋本龍太郎内閣で、答弁に立つ小杉文部大臣も、質問する菅議員も、共に自民党所属の与党議員同士の関係。
一方、創価学会系の議員は当時は大半が新進党に所属するなど、国政では野党の立場でありました。

さて本論。
菅氏は冒頭、「政治と宗教の問題」を靖国神社玉ぐし料訴訟から説き起こします。

―――――
○根本主査 ……次に、菅義偉君。

○菅(義)分科員 自由民主党の菅でございます。
 早速、政治と宗教の問題を中心に質問をいたします。
 本年の四月二日に、いわゆる愛媛県の玉ぐし料訴訟で、最高裁は、愛媛県庁の靖国神社での玉ぐし料への公金支出は違憲とされる判決を下しました。宗教団体に国家機関、自治体がかかわってはならないという政教分離原則を確認した判決でもあったわけであります。
 私は、個人的には、靖国神社というのは本来戦没者の慰霊の場所、施設であって、何もそこまで考える必要はないのではないかと思っておる者の一人でありますけれども、しかし、この判決は判決として尊重しなければならないということもこれは事実であります。
 改めて、この判決について、大臣の御見解をお伺いをいたします。
    〔主査退席、滝主査代理着席〕

○小杉国務大臣 今のお話は、愛媛県に関する争訟事件であって、文部大臣として基本的にコメントする立場にはありませんが、これは国家と宗教のかかわりに関する重要な判決と受けとめております。
 今回の最高裁判決は、宗教団体の行う行事に公金を支出したことが憲法の禁止する宗教的活動に当たるという判断を示されたものであって、私としてもこの判断に従っていきたいと考えております。
―――――

菅氏の信条とは相容れない違憲判決を引き合いに出したのは、立憲主義や三権分立に対する謙虚さからではまったくなく、すぐにわかるように創価学会を攻撃する突破口として利用したにすぎません。

2019/04/22

唇と舌をもてあそぶ愛国者(補遺)

前回まで取り上げた、1929(昭和4)年の貴族院議員・二荒芳徳氏の質問に関する補遺ないし重箱の隅を若干。


①二荒芳徳氏は声が大きな人物だった?

本会議では登壇して質問をするのが通例。
ところがこのときの二荒氏の質問の冒頭部分を見ると、

―――――
〇副議長(侯爵蜂須賀正韶[1]君) 二荒伯爵の御登壇を望みます

〇伯爵二荒芳徳君 本員の質問は頗る簡単でありますから、自席から御許しを願ひたうございます

〇副議長(侯爵蜂須賀正韶君) 宜しうございます
―――――

[1]蜂須賀正韶(はちすか・まさあき) 政治家。侯爵。1871(明治4)年生、1932(昭和7)年没。1924(大正13)年~1930(昭和5)年貴族院副議長を務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

演壇ではなく、議員席からの発言を許されています。
また、首相答弁に対して二荒議員が再質問を求めた際、今度は議長との間でこんなやり取りも。

―――――

〇伯爵二荒芳徳君 座席から質問いたしたいと存じます

〇議長(公爵徳川家達[2]君) 二荒伯爵の大きな御声なら宜しからうと考えます
―――――

2019/04/19

唇と舌をもてあそぶ愛国者(下)

前回の続きです。

ここまで道徳的義憤をぶちまけてきた貴族院議員・二荒芳徳氏。
とはいえ議場で抽象論を振りかざすだけではまずいと思ったらしく、
又思想の善導に、或は国粋を唱へ、或は愛国を唱へますけれども、其焦点にして真に我々昭和時代人の悩みを理解しない所の主義主張を云ふようなものは、果たして是れ真の愛国であり、国粋でありませうか 
との前置きのもとに披露したのが、こんなエピソード。

―――――
〇伯爵二荒芳徳君 ……私は昨秋京都に参りまして斯かる事例を聞いたのであります、……京都と滋賀の境に四明岳と云ふ比叡の一峰があるのであります、此四明岳に明治天皇の御聖徳標を建てやうという企があるのであります、而して此会の会員には皆著名な、殊に私共の尊敬する人々が入って居られるのでありますが、其四明岳の頌徳表の頂きには百万燭光の電気をつけまして、昼夜間断なく八洲を照らすと云ふ計画であるさうであります
―――――

どうやら明治天皇の徳をたたえる記念碑か何かを建てようという計画らしい。
ここまでは特別な意外性はありません。

ただ、その「御聖徳(頌徳?)標」に「百万燭光の電気をつけ…昼夜の間断なく…照らす」、つまり一日中ライトアップをするなどと派手にぶち上げたのが、おそるべき波乱の幕開けでした。

2019/04/16

唇と舌をもてあそぶ愛国者(上)

国会会議録は分量が多いし、人物像や時代背景もわかりにくい。
おまけに言い回しが難解なわりに内容が乏しいなどとお考えかも知れませんが、まあ実際そんな感じです。

では無味乾燥なのかというとさにあらず。
今回は皇国史観むき出しの貴族院議員が主人公ですが、こういう堅物の口からも、突如として退屈さを吹き飛ばす名言・珍言が飛び出したりするのが議会政治の面白いところです。

そんなわけで、1929(昭和4)年1月29日、第56回帝国議会貴族院本会議における、二荒芳徳伯爵[1]の質疑を取り上げます。(当日の会議録はこちら

[1]二荒芳徳(ふたら・よしのり) 官僚、政治家。1886(明治19)年生、1967(昭和42)年没。伯爵。東京帝大卒。内務省の官僚、宮内省参事官などを経て、1925(大正14)年に貴族院議員(勅選)、以後1947年(昭和22年)まで議員に在職。ボーイスカウト日本連盟総コミッショナーなども務めた。(参考「20世紀日本人名辞典」)

この第56議会(常会)では治安維持法改悪の緊急勅令事後承諾案が大争点となるなど、内政外交ともに激動の真っただ中。

そんなときに二荒伯爵は議会でいったい何を質問したかというと、

①日本語の正しい仮名遣いと発音について
②日本人の思想を善く導くための「善」の基準は何であるか

要するに、当時の言葉遣いや思想の乱れをひたすら憂いていらっしゃいます。

主に②の問答を追いますが、その前に①についても若干紹介しましょう。

―――――
〇伯爵二荒芳徳君 本員は文部大臣に御伺を致したいと存ずるのであります、……大正十三年十一月に臨時国語調査会と申します所の仮名遣改訂案が発表されたのであります、此改訂案は思ふに一つの研究調査の発表でありまして、之を以て我国古来の国語の用語を改訂するものとは、私は存じませぬのであります、文部当局は此改訂案を、或は教科書の改訂に用ひ、或は其他の公文に御使用になる御見込みでありますか、如何でありますか……

〇国務大臣(勝田主計[2]君) ……正に二荒伯の仰せられる通りの趣旨を以て、文部大臣はやって居りますから、是だけ御答えいたします
―――――

2019/04/10

「一億総懺悔」の真相(下)

シリーズ最終回です。

これまで見てきたように、「一億総懺悔」とは結局のところ、戦果を望む天皇の期待に応えらぬまま敗戦に至ったことを"反省"して、臣民一同が天皇にお詫び申し上げ、次こそは天皇のご意向に沿って国家再建を達成しよう!というものでした。
ここには、国民は(天皇を頂点とする)「国家」のために尽くす生き方が当然という、明治憲法的な国家観・人間観が色濃く反映しているのでしょう。

演説はこのあと、そのポツダム宣言受諾後の方針に話題が移ります。(因みに、降伏文書の調印が1945年9月2日、東久邇宮総理大臣演説は9日5日)

まずは国家再建の基本がどこにあるかという総論部分です。

―――――

 是より先、米英支三国は「ポツダム」に於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉砕の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思はせられた大御心に依り、大乗的 御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として 天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります、帝国と聯合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て聯合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります、顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、聯合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以来のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担つて、其の嚮ふべき所を誤らしめず、国体をして弥が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります(拍手)一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります
 今日に於て尚ほ現実の前に眼を覆ひ、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ(拍手)一言一行悉く 天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は 大詔の御誡めを畏み、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります(拍手)

2019/04/07

「一億総懺悔」の真相(中)

前回の続きです。

戦時中は本土防衛(本土決戦?)の責任者であったのに、一転して敗戦処理の責任者に任命されてしまった皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏。

前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し…」などと、「一億総懺悔」路線で事態を切り抜けようと画策する必死なお姿を観察してまいりました。

そうはいっても、軍や官にも反省すべきところがあると言明したわけですから、何かしらの「懺悔」があって良さそうなものです。今回はそのあたりを見ていきます。

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 征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、沍寒を凌ぎ、炎熱を冒し、具さに辛苦を嘗めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて其の職務に尽瘁し、銃後国民は協心戮力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は其の総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて参りました、固より其の方法に於て過ちを犯し、適切を欠いたものも少くありませぬ、其の努力に於て悉く適当であつたとは言ひ得ざる憾みもあります、併しながら凡ゆる困苦欠乏に耐えて参りました一億国民の此の敢の意力、此の尽忠の精神こそは、仮令戦ひに敗れたりとは言へ永く記憶せらるべき民族の底力であります(拍手)

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戦争の「方法に於いて過ちを犯し」という以前に、そもそも戦争の「目的」がおかしかったのではないかとか、ツッコミどころは満載ですが、ここはグッとこらえて先へ進みます。

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2019/04/04

「一億総懺悔」の真相(上)

議会政治史の一愛好家が、古今の国会会議録をひたすら発掘していきます。

初回のテーマは「一億総懺悔」。 
ときは大日本帝国敗戦直後、第88回帝国議会[1]における東久邇宮稔彦総理大臣[2]の演説です。

[1]第88回帝国議会 内閣が戦争終結経緯を議会へ説明するために召集した臨時会。会期は1945(昭和20)年9月4日~5日の2日間。

[2]東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ) 軍人、政治家。1945年当時は皇族。1887年生、1990年没。第二次世界大戦中は本土防衛総司令官。1945年8月から10月まで首相として終戦処理にあたる。1947年に臣籍降下(つまり皇族ではなくなった)して以後の名は東久邇稔彦。(参考「ブリタニカ百科事典」)

演説は1945年9月5日に貴衆両院の本会議場で別々に行われましたが、内容的にはほぼ同一。ここでは衆議院版を典拠とします。(貴族院版はこちら) 

文字の色が変わっている部分が会議録からの引用、それ以外の部分(黒色の文字)は管理人のコメントです。

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○議長(島田俊雄君) (前略)内閣総理大臣より発言の通告があります――内閣総理大臣稔彦王殿下
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  〔国務大臣稔彦王殿下登壇〕

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「索引」事件簿File.5【索引編集は臨時的な仕事ではない】 #国会会議録の使われ方 その11

「索引」事件簿File.5【索引編集は臨時的な仕事ではない】   シリーズ第9回 では、1960年代から国会会議録の「総索引」が編纂されるようになった(従来の「索引」からの拡充が図られた)こと、   シリーズ第10回 では、1970年代からは国会の業務にもコンピューター化の波が押...